執筆記

ウィキペディア利用者:逃亡者です。基本的にウィキペディア執筆に関しての日記です。そのうち気まぐれで関係ないことも書くかもしれません。

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑪(終)

(⑩より続く)

 

日本の経済発展の一方で、利益を求るばかりに過剰に自然が破壊されてゆくことを危惧しつつ、やがてタメヨさんは晩年を迎えていました。


この頃、同年代の近所のご老人たちは、パークゴルフや、連れ立っての旅行を楽しんでいました。

タメヨさんはそうした趣味を楽しむことも無く、自宅で新聞に隅々まで目を通し、社会の動向に目を配るか、斜里(しゃり)大自然を臨む縁側で、本を読むだけの日々を送っていました。時折目を休めては、斜里岳をじっと見つめました。口癖のように、よくこう言いました。

「生きとし生けるもの、すべてが自壊の道へ進んでいる気がする」

 

最晩年には、小清水町内の特別養護老人ホーム・愛寿苑で過ごした後、2002年(平成14年)10月、小清水日赤病院へ移されました。

死期を悟っていたのでしょうか。家族や親戚たちが見舞いに訪れると、とうに幻滅したはずの郷里への慕情を、しばしば漏らしていました。

狸森(むじなもり)に帰りたい……」

 

入院以来、重篤の報せが届くたび、何度となく家族や親戚たちが駆けつけました。

やがて酸素吸入器を付け、食事を受け付けなくなり…… 幾度となく死線をさまよいました。

 

2003年(平成15年)2月。長年同居した長男の正行さんは、毎日のようにタメヨさんを見舞っていました。病院で夜を明かした2月13日、その疲労を労う看護師さんから「今日はきっと大丈夫ですから」と声をかけられ、夜遅くに帰宅しました。

午前2時頃。タメヨさんの容態が急変との報せを受け、正行さん夫妻は急遽、病院へ駆けつけました。

到着からわずか10数分後のこと…… 正行さんたちを待っていたかのように、タメヨさんは2人に看取られつつ、永遠の眠りにつきました。

 

2003年2月14日、満98歳没。医師の診断は「老衰性自然死」。

 

明治、大正、昭和、平成と、4つの激動の時代を約1世紀にわたって駆け抜け、21世紀に至るまで逞しく生き抜いたタメヨさんの最期は、老衰による安らかなものでした。

「天寿を全うしての大往生だな……」

「おばあちゃん。ずっと働き続けて、疲れたでしょう? ゆっくり休んでね……」

他の子供たちや親戚たちも、後から駆けつけました。タメヨさんの安らかな死に顔を見て、こんな声が漏れました。

「今にでも起きて、畑仕事に行きそうだな」

 

小清水町の瑞雲寺で営まれた通夜と告別式は、町が始まって以来の盛大な葬儀となり、弔問客の数は千人を超えました。

タメヨさんの墓碑は、小清水町郊外の墓地で、夫の貞三郎(ていざぶろう)さん、父の忠助さんと母ソメさんの墓碑に囲まれ、タメヨさんが愛してやまなかった知床(しれとこ)の地を臨んで建てられました。

 

タメヨさんが手塩にかけて育てた子供たちは、9人とも健在。孫の数は16人に昇っていました。孫の1人は、タメヨさんを支え続けた北極星を指して言いました。

「おばあちゃんは、あの星になるんだよね」

 

タメヨさんの命日の2月14日は、バレンタインデーです。孫たちは祖母タメヨさんの柩に、小さなチョコレートを納めました。

日本でバレンタインデーのチョコレートの風習が定着したのは1970年代後半。タメヨさんの青春時代や、夫の貞三郎さんとの死別より、ずっと後のことです。

タメヨさんの三男の忠三さん(筆名 : 関根 圭)はご著書において、タメヨさんの生涯をこう締めくくっています。

 

「母は、あの柩のチョコレートを来世で、顔を赤らめつつ、父に贈ったことだろう」

 

タメヨさんと貞三郎さん、2人の初めてのバレンタインデーとして──

 

(終わり)

 

参考文献)

関根圭『ポラリスを抱いて』、新風舎、2007年5月25日、ISBN 978-4-7974-6158-9。

ほっかいどう百年物語 北海道の歴史を刻んだ人々──。』第8集、STVラジオ編、中西出版、2008年2月16日。ISBN 978-4-89115-171-3。

“関根タメヨさん(ヨミックス社長・関根忠三氏の母) 死去”. 読売新聞 東京夕刊 (読売新聞社): p. 13. (2003年2月14日)

“開拓の歴史、生きた母の姿 関根圭さん著「ポラリスを抱いて」”. 読売新聞 東京朝刊: p. 28. (2007年6月8日)

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑩

(⑨より続く)

 

高度経済成長を経て、時代は流れていきました。タメヨさんたちの命がけの開墾も、次第に人々の記憶から消え、過去の出来事となっていきました。

 

1970年代後半頃より、タメヨさんの関心は、観光ブームや開発と言っては破壊される日本の自然、自然破壊へと移って行きました。

「私たちもかつて自然を切り開いたが、それは生きるために必要だったからだ。必要の無い建物や道路を造るために自然を切り開くこと、それは自然の摂理に反するのではないだろうか?」

 

1977年(昭和52年)、ナショナルトラスト運動しれとこ100平方メートル運動」が展開されました。日本全国から寄付を募り、知床(しれとこ)の土地を100平方メートルずつ買い上げ、開発の手から知床を守る、との運動です。

当時の斜里(しゃり)町長・藤谷 豊氏は、この運動の責任者として、タメヨさんの四男、2007年(平成19年)まで斜里町の副町長を勤めた郁夫さんを起用しました。タメヨさんは藤谷氏と親交があったことから、この運動の構想に共感し、息子の背を後押ししました。同時に、タメヨさん自身も真っ先にこの運動に参加し、自費で知床の土地を購入し、運動の先駆者の1人となりました。

 

1981年(昭和56年)。小清水の大自然を守り、自然と人間との共存を目標とした「オホーツクの村」が誕生しました。このときもタメヨさんは率先して、運動の参加者の1人となりました。

かつてタメヨさんたちが踏み入れた北海道の地には、アイヌが先住しており、タメヨさんも幼い日々にアイヌの少女と親交がありました。しかしアイヌは和人との共存に失敗し、移住せざるを得ませんでした。

アイヌの残した自然を守ること。それがせめてもの恩返しであり、感謝の証であり、私たちの責任だ」

 

アイヌ民族の1人にしてアイヌ研究者でもある萱野(かやの)氏。萱野氏の国会議員時代の秘書・滝口 亘氏が、タメヨさんの子供たちの知人であり、タメヨさんは小学校時代、瀧口氏の母親と席が隣同士だったという、数奇な縁もありました。

 

1994年(平成6年)9月。皇太子様ご夫妻が知床を訪れ、羅臼(らうす)に登山されました。このとき、タメヨさんの孫娘の夫、斜里町環境保全課長の村田良介さんが案内を務めました。

この登山によって、知床の名が環境庁など関係機関に広まり、知床が世界遺産となる切っ掛けの一つになったともいわれています。

 

この1990年代から2000年代にかけ、タメヨさんの郷里の福島では福島空港が開港し、「うつくしま未来博」が開催されました。

空港開港時は「高速道路や新幹線が整備されている福島に空港が必要か?」との疑問の声が上がりましたし、未来博の跡地は分譲地として再利用されるはずが、ずっと手つかずの状態でした。タメヨさんは郷里の地が必要以上に開発の手で削られることに、疑問を抱くばかりでした。

 

タメヨさんは1972年(昭和47年)に長男の正行さん夫妻と、1984年(昭和59年)には三女のサダ子さんと共に、福島の狸森(むじなもり)へ帰郷したことがあります。空路の開通により、福島へは遥かに往来しやすくなりましたが、その空港建設のために、タメヨさんが幼い日々を過ごした山や森が切り刻まれ、川が埋め立てられました。その幻滅から、タメヨさんの帰郷は、生涯でこの二度きりとなりました。

 

長年にわたって自然と共に生きてきただけに、開発によってその自然が破壊されてゆくことを危惧しつつ、タメヨさんは晩年を迎えてゆきます。

 

(⑪へ続く) ※次回、最終回です

 

ファーム富田と富田ユキさん、など

早朝から多忙と予告しておいたら、予想以上の多忙で、本当に今日は「北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ」を休載して良かったと痛感しました。どこぞのプロの連載だと、こんな勝手な連載はできないのでしょうね。

やっと仕事を終え、予約した本が川崎図書館に届いたので帰り際に取りに行ったら、第3月曜でお休みだったり、確か曇りだった天気予報がいつの間にか雨になっており、雨に濡れて帰ったりと、今日は散々な帰り道でした。

 

さて一昨日のことですが、17日(土)『ブラタモリ』で、「ファーム富田」が登場しました! 先週、富田ユキさんのことを書いたばかりで、何というタイミングでしょうか。

www.nhk.or.jp

富良野ラベンダーが海外輸入物に押されて下火になり、その後、国鉄カレンダーに採用されて云々」本で読んだ通りだ! 本やネットで調べた人や物に、実際に出逢うのは不思議感覚ですが、それらがこうしてテレビに出るのもまた不思議感覚です。

富田ユキさんは家族ご一緒の写真で登場しましたが、さすがにお名前は出ませんでした。やっぱりマイナーかな…… せめて、サシェのことは触れても良いと思うのですが。

サシェといえば、富田ユキさんはネットに見当たりませんが、ファーム富田がサシェで持ち直したという情報はちらほら見かけたので、メモっておきます。

消えかけたラベンダー、再生への扉-紫薫るラベンダーの大地:北海道人

思いつづけることを止めれば、可能性もなくなる

ラベンダーを見に行こう !! “紫のじゅうたん” が広がる北海道・富良野へ - ライブドアニュース

テレビご登場はユキさんの息子さんの富田忠雄さんと思いきや、そのまた息子さんでした。ん、もしや? と思い調べ…… 恥かしながら、初めて富田忠雄さんの訃報を知りました。

富田忠雄氏が死去 ファーム富田会長:訃報:全国経済:qBiz 西日本新聞経済電子版 | 九州の経済情報サイト

ウィキペディアの新規記事を書く際、書くに値するかどうか、個人的に一つの目安にするのが、「全文検索してみて、そのキーワードがどこかで言及されているか」です。富田ユキさんはどこにも記述がありませんが、富田忠雄さんでしたら、ファーム富田などにあるのですよね。

富田忠雄さんの記事を立項し、その中で母親についてに触れ、「富田ユキ」を立項する、という手段もアリでしょうか。

 

さて明日からは「北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ」再開予定。

再開といっても、いよいよ終盤です。物語も、タメヨさんの生涯も、

 

雑感

明日の11月19日(月)は早朝より本業が多忙予定ですので、思い切って本日(18日)は⑧⑨同時掲載とし、19日(月)は休載予定とさせていただきました。

北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑧

北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑨

 

関根タメヨさんの連載を始めて以来、急に読者が増えました。「スター」って言えば良いのでしょうか、あれを付けていただくことも増えました(←先月はてなブログを始めたばかりで機能が全然わかってない)。「読者数が少なくても気にしない」などと大口を叩きながら、「お知らせ」が届くので目に入ってしまいます。こんな駄文を読んでくださり、心より感謝です。ありがとうございます。

 

タメヨさんの連載を続けながら、情報源の伝記を読み続け、やっぱりこの人はウィキペディアに書くべきかなぁ……と考え中です。しかし百科事典的に、客観的に、私情を抜いてウィキペディアに書くとすると、今までの記述は大幅に端折るだろうと思います。ドラマ的には面白く思うけど、特に社会に貢献したとか、こうした人生が第三者のどなたかから幾度も大きく評価されている、というほどでもありませんので(少なくとも現時点ではそうした資料を発掘できていない)。

 

ウィキペディアでの最近の動向ですが、昨日17日(土)は「ウィキペディアタウン in 秋葉原」開催日でした。参加するか迷いましたが、今回は席を外させていただきました。

ウィキペディアタウン in 秋葉原 Vol.1 〜11/17開催!参加費無料!〜 | Peatix

実は先日の「第2回wikipediaブンガク」の懇親会の席で「この記事を書きます!」と言ってしまった手前、その資料の捜索で昨日は1人、図書館を奔走しておりました。いざ書き始めると、門外漢の記事ですので難航中です。「書く」と言ってしまったのは、酒の勢いもあったのかなぁ……

 

話は変わって先日触れた、僕の郷里の小樽の名犬「ぶん公」、博物館に剥製があるとのことで、撮影して記事に掲載し、記事に彩りを添えようと目論んでおりました。

博物館宛てにメールで問合せると「申請すればウェブ上に掲載OK」とのこと。初版投稿者のS女史に報告したら喜んでいただけましたが、その後「申請して掲載って、ウィキペディア上ではどうしたらいいんだろう」と思い、ウィキペディア上で質問を投げかけたところ、紆余曲折を経て、掲載NGとなりました。

Wikipedia:井戸端/subj/施設内写真の画像掲載に申請を要する場合 - Wikipedia

S女史を糠喜びさせてしまい、申し訳なく思っております。ちゃんと掲載が完全OKとなってから報告すべきでした……

最終的に掲載NGとなったものの、博物館は掲載可否の問合せに対して真摯に対応してくださり、感謝しております。良い施設です。この博物館を盛り上げるため、小樽へ旅行する皆様、ぜひ小樽市総合博物館へお立ち寄りください(←単なる郷里の宣伝)。

小樽市 :小樽市総合博物館

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑨

(⑧より続く) ※都合により本日も⑧⑨同時掲載、11月19日(月)は休載予定です

タメヨさんの父の忠助さんが急逝した同1952年(昭和27年)。タメヨさんの長女の光子さんが、国鉄職員とお見合いで結婚しました。次いで次女のタツ子さんが結婚。三女のサダ子さんもお見合いで結婚に至りました。1958年(昭和33年)5月、正行さんが結婚しました。

タツ子さんのご主人は小学校教師でしたが、結婚の数年後に退職して家業を継ぎ、同時にタツ子さんと共に創価学会へ入信しました。当時の創価学会への批判は現在以上のものでしたから、タツ子さんたちは周囲から、そして兄弟たちからも非難されました。しかしタメヨさんは、タツ子さんを批難するどころか、他の兄弟たちを戒めました。

「日本の憲法で信仰の自由は保障されている。何も恥じることはない」

タメヨさんはタツ子さんだけでなく、子供たちみんなの進路に、常に寛容でした。

「うちは根っからの貧乏。何事も努力してつかみ取るしかない。ただ、世間に疎まれること、後ろ指を指されることだけはしてはいけない。そのようなことをしたら、親子の縁を切る」

 

自分の子供を決して不幸にしまいと思ったのでしょう。四女の孝子さんが結婚後に貧乏生活を強いられ、「何々が無くて困っている」と漏らすと、タメヨさんは自分がどんなに貧乏でも、必ずその品物を送りました。

 

次男の建二さんは、苦学しながらも札幌へ出て働き始めました。関根家では忠助さんと建二さんだけが、喫煙の習慣がありました。タメヨさんは、3か月に1度は必ず建二さんに手紙を書き、息子の身を常に案じ、特にタバコの吸い過ぎに気を付けるよう書いていました。もっともタメヨさんはそう言いつつも、建二さんがたまに帰省すると、わざわざ繁華街まで出かけてタバコを買い、内緒で建二さんに贈っていました。

 

長男の正行さんの長女、タメヨさんの孫娘である由香さんは、中学校卒業まで、登校前には必ずタメヨさんが髪を編んでくれました。バス通学が始まると、タメヨさんは由香さんの帰りを心配し、毎晩のようにバス停留所で帰りを待ちました。病気で入院すれば、タメヨさんは何週間も寝ずの看病を続けました。孫を可愛がる優しいお婆ちゃんでもありました。

 

タメヨさんが喜寿を迎えた頃、最後に末っ子の郁雄さんが結婚。9人の子供たち全員が結婚しました。

 

おめでたい結婚話の反面、1965年(昭和40年)には、母のソメさんが他界という悲報もありました。自分の信念を貫くタメヨさんに対し、細やかな愛情の持ち主だったソメさんは、タメヨさんの子育ても常に支えていました。そのソメさんの死は、タメヨさんによって大きな打撃でした。

 

(⑩へ続く)

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑧

(⑦より続く) ※都合により本日も⑧同時掲載、11月19日(月)は休載予定です

 

タメヨさんの長男の正行さんは成績優秀で、学校では高校進学を勧められていました。しかし父の貞三郎(ていざぶろう)さん亡き今、自分が農家の跡取りです。父と死別したときから、自分が進学を諦めれば済むと決めていました。農家の男子は中学卒業後は立派な働き手となり、進学せず農業に従事するのが常識の時代でした。

 

次男の建二さんもまた、成績優秀でした。1950年(昭和25年)、建二さんの進学時期が迫りました。タメヨさんは今度こそ進学させたいと考えましたが、正行さんや姉たちが進学できなかった手前や、家計のことから、言い出せずにいました。

正行さんは自分が進学を諦めた一方で、今後の社会人は高校卒業くらいの知識が必要と考え、タメヨさんに弟の建二さんの進学を提案しました。他の子供たちも賛成し、タメヨさんは安堵しました。建二さんはめでたく、高校進学を果たしました。

 

しかし高校生活は、予想以上の苦労でした。止別の自宅から高校までは、徒歩と汽車で約1時間半もかかります。始業時間は8時20分。高校近くに下宿できれば良いのですが、下宿費など用意できません。

タメヨさんは毎朝5時前に起きて弁当を作り、夜が明けきらない内に建二さんを送り出しました。帰りは夜20時頃になることもあり、タメヨさんは建二さんの顔を見るまでは眠ることができない日々が続きました。

 

下宿費が用意できなかったように、当時の関根家は未だ貧しく、食事でも主食はほとんど麦飯でした。建二さんの高校に持参する弁当も、もちろん麦飯です。当時の高校生大半の弁当が白米でしたので、建二さんは昼食の時間が最も苦痛でした。

そこでタメヨさんは、息子が恥しくないようにと、祭事や正月用に買い込んでおいた白米を麦飯の上に薄く乗せ、白米に見せかけた「偽装白米弁当」を考案しました。後に五女の信世さん、三男の忠三さん、四男で末っ子の郁雄さんも進学し、郁雄さんの高校卒業まで、この「偽装白米弁当」が続きました。

 

1952年(昭和27年)2月。タメヨさんの父の忠助さんが、入院中の隣人を見舞った後、急に倒れ、2日後に死去しました。当時の病院では病室で煮炊きが許されており、七輪による一酸化炭素中毒が死因でした。

「孫が9人もいるなら、1人くらい結婚するまでは死ねない」

それが忠助さんの口癖でしたが、孫の結婚の夢が叶う、わずか3か月前のことでした。

 

(⑨へ続く)

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑦

(⑥より続く)

 

タメヨさんの夫の貞三郎(ていざぶろう)さんが、結核で死去した後のこと。次女のタツ子さん、長男の正行さんも、父からの感染により結核に罹患しました。正行さんは軽症で済みましたが、タツ子さんは重症でした。

タメヨさんは夫の最期を思い出し、土地を売ってでも娘を救おうと、医師に頼み込んで、高価なストレプトマイシンを何本も投与し続けました。約3年後にタツ子さんは治癒しますが、この治療費は莫大なものとなりました。タメヨさんたち関根家は、経済的に最大の危機に瀕しました。

 

農協に借金を申し込みましたが、収入の低さを理由に断られました。種モミを借りることすらできませんでした。タメヨさんは正行さんと共に、もとの蒼瑁(そうまい)村まで行って、かつての知人たちを頼り、どうにか農作業を凌いでいました。

止別(やむべつ)で誰かに頼ろうにも、移住から何年も経たない関根家は、いわば「よそ者」扱いでした。あるとき、当時はまだ貴重品だった砂糖が村の全戸に支給されることになり、皆が喜びました。しかし関根家は「移り住んで間もないから」との理由で、支給はありませんでした。タメヨさんは人の本性を見た思いで、一時は悲嘆したものの、すぐに気持ちを切り替えました。

「今の時代は、みんなが今日という日を生き抜くのに必死なんだ。人を憎むなんて、おかしい」

 

タメヨさんの考える通り、終戦直後の止別は、どこの集落も貧しく、毎晩のように寄合が開かれました。長男の正行さんは、亡き貞三郎さんの跡継ぎとはいえ、まだ18歳、未成年です。荷が重いと感じたタメヨさんは、自ら寄合に出向き、村の男たちと渡り合っていました。

 

子供といえば、タメヨさんは9人の子供たちを育てるにあたって「常に9人平等に」と考えていました。たとえば、父の忠助さんが慶事や法事の土産に羊羹(ようかん)を持ち帰れば、皆が甘味に飢えていた時代ですから、子供たちは大喜びします。しかし、羊羹はたった1本です。タメヨさんは羊羹を物差しで測り、わずかの狂いもなく9等分していました。何度も繰り返す内に、物差しを使わなくとも正確に9等分できるようになりました。それはまさに神技のような包丁さばきで、子供たちから拍手が巻き起こるほどでした。

 

度重なる不幸に、子供たちが先行きを不安がることもありましたが、タメヨさんは子供たちの前では、努めて明るく振る舞っていました。農作業の帰り道では、子供たちと共に、当時の流行歌『リンゴの唄』『東京の花売娘』などをよく口ずさんでいました。

「私まで暗く落ち込んでいては、子供たちに悪い影響が出る。明るく振る舞わなければならない」

 

終戦直後のあるとき。タメヨさんの次男の建二さんが、冬のオホーツク海へ訪れるアザラシを友達と狩りに行くと言い出しました。タメヨさんは「何日もかけてここまでやって来るアザラシを殺す必要があるの?」と激しく叱りつけ、建二さんを戒めました。

また、川へ産卵に遡るサケを密漁者が獲ろうとしたときには、タメヨさんは「川で卵を産んで死ぬ運命のサケを面白半分で殺していいの!?」と、厳しく説教しました。

タメヨさんは生来、生物に愛情を注ぐ性格でした。歳を経るに従い、次第に自然への慈しみが深まっていったのです。この自然に対する心情は、後の自然保護運動へと結実していきます。

 

(⑧へ続く)