執筆記

ウィキペディア利用者:逃亡者です。基本的にウィキペディア執筆に関しての日記です。そのうち気まぐれで関係ないことも書くかもしれません。

伝説の土地へ!

北海道胆振東部地震から約3か月が経とうとし、あの地震のニュースが報じられることも、まばらになりました。

「そろそろ時効かな」と思い、自白しましょう。


Facebookでも触れました通り、あの地震の後、郷里の北海道小樽市の家族の無事な姿を見たいがため、9月の秋分の日の連休を絡めて休暇を取得し、5泊6日で郷里の北海道小樽市へ帰郷しておりました。


その間……

実は9月22日(土)~24日(月・祝)、2泊3日で函館へ行っておりました。


なぜ、そのことをFacebookでまったく触れないのか?

地震当日、9月6日(木)早朝。恥かしながら、地震発生を知ったのは出勤電車内。出社後に即、郷里の母に電話しました。しかし地震による停電中にも関らず母の携帯が充電不足とのことで、「みんな無事、大丈夫」とだけ確認後、仕事につきました。

僕はウィキペディア東日本大震災の記事もいくつか執筆しており、資料中、辛い避難生活のことも目にしました。もし家族があんな目に遭っていたら……と、仕事がとても手につかず、お恥ずかしい話、仕事中に涙をボロボロ流しておりました(※実は涙腺が緩いとよく言われます)。同僚の目も同情的で、上司に「そんな調子じゃ仕事にならないでしょう」「もう今日は帰りなさい」とか言われる始末です。

結局は、被害はずいぶん少なかったわけですが……

そして9月の連休に帰郷を決めたところ、家族は地震発生以前、8月頃より、9月末の連休に兄のマイカーで函館旅行を計画していたとのこと。当然、僕も旅行に同行することになりました。

ところが職場では、「彼は地震で大変な目に遭った家族のもとへ駆けつける」というイメージがすっかり定着してしまっています。おまけにFacebook友達の何人かは上司と同僚です(^^;とても「函館旅行へ行く」なんて、遊び気分のようなことは言えなかったのです……

そのような事情で、僕が9月22日~24日に函館にいたことは、ブログをご覧になっている皆様だけの内緒話にしていただけますと幸いです。

別に北海道へ函館旅行に“だけ”行ったわけではなく、Facebookに載せている「地震の影響で電車が遅延」「スーパーやコンビニは品不足」「がんばって、品物の揃っている遠くの店へ行った」といった話も、写真を載せている通り、紛れもない事実なのです(^^;


さて、家族皆で函館の道中。

兄の車でドライブ中、何となく窓から外を眺めていると、目に飛び込む文字がありました。

「函館盲唖院」

えっ? 嘘!?

あの佐藤在寛先生が院長を勤めた函館盲唖院(北海道函館聾学校の前身)が、ここに!?

函館だから、僕が書いた函館の偉人ゆかりの場所へ行けるかもと思ったけど、まさか本当に通りかかるなんて!

佐藤在寛 - Wikipedia

兄からは「どこか行きたい場所があるか?」と聞かれていましたが、自分で言うのも何ですが、消極的な性格の僕は家族に対してすら遠慮深く、「ウィキペディアのために函館盲唖院の場所へ行きたい」などと言い出せません。

元町公園旧函館区公会堂を見学して回った後、家族が「ちょっと休憩しよう」と言い出しました。

その場所から、先ほど「函館盲唖院」と見かけた場所まで、徒歩で5分もかかりません。

今を逃せば、次の機会はいつ訪れるかわかりません。思い切って言いました。

「ちょっと、あっちを見てきていい?」

確か、この角を曲がって、この道を降りて……

あった、看板!

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「この上120m 函館盲唖院跡地」

もはや、気持ちを抑えることなどできません。120mの上り坂を駆けました(※函館は坂が多いのです)。

もうすぐだ!

佐藤先生のあの場所が、もうすぐそこに!

そしてついに、ついに辿り着きました。

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「函館盲唖院跡地」

函館盲唖院は昭和中期に聾学校と盲学校に分かれ、それぞれ別々の地に移転したので、盲唖院のあった場所には「跡地」の看板が建っているのみで、建物自体は影も形もありません。

しかし、その場には確かに、佐藤先生のオーラが満ちています。かつてここで、子供たちのため、聴覚障害者のために佐藤先生が奮闘していたのです。

自分は今、確かにこの場所にいる。心臓の鼓動が増し、涙がこみ上げそうでした。

佐藤先生の偉業に比べ、自分の何とちっぽけなことか。いい歳をして独身、職場で未だに何のポストにも就かない、いつまで経っても低月給の非正規、底辺中の底辺会社員。

そんなへっぽこな自分が、畏れ多くも佐藤先生の記事を書き、こうして先生に逢いに参りました。

別に墓地でもないのに両手を合せ、写真撮影した後、家族のもとへ戻りました。

この後、30分ほど余韻に浸っており、家族と共にどこを回ったか、よく憶えていない始末です。

 

やはり僕は、自分を育んでくれた北海道の地、そしてこの地を築き上げた偉大な人々のことを、もっと書かなければなりません。

まだまだ大勢の偉人たちがいらっしゃるのです。

へっぽこな自分ですが、へっぽこなりに腕を振るいましょう。

数々の偉業を世に伝える、そのために!

 

最後に── 今回のタイトルは、以前触れた笠原弘子さんの楽曲『約束の土地へ』をもじりました(またアニメのパクリかよ……)

総括

関根タメヨさんの伝記「北極星に支えられた開拓者」、昨日の最終回にて、堂々(?)の完結です。

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑪(終)

 

一昨日(最終回前日)は、本業が今までに輪をかけた多忙さで、夕食は夜の帰り道に路上を歩きながら、コンビニおにぎりを無理やり腹に収めるだけした(←マナーの悪さは百も承知です、本当に時間が無かったのです)。疲労からか、二度ほど立ちくらみで倒れそうになり、1度目は壁にもたれ掛って倒れずに済み、2度目は「ここで倒れたら最終回を書けない」と歯を食いしばって我慢し、帰宅後に吐きそうになりましたが耐えて、翌朝、書き上げた次第です。まったくもって、書いても一銭の得にもならないことに、我ながらよくもまぁ、こんなに一生懸命になるものです。

 

全11章にもわたり、こんな駄文にお付き合いいただいた皆様、本当に本当に、心より感謝です。ありがとうございました。身勝手な自己満足で始めた企画に、まさかここまで読者様が増えるとは驚きし通しでした。

(もちろん読者数何百・何千・何万の大人気ブログには到底、比較になりませんが)

 

できましたら、ちゃんと読者皆様のブログを見て回り、興味のあるブログは読者となり、お礼を述べたいのですが、時間が無い事に加え、如何せん、先月はてなブログを始めたばかり。読者がどなたか、よくわかりません。この間、読者一覧を確認する方法を見つけたはずですが……失念しました、すみません。今度発見したら、ちゃんとメモります。

 

FacebookTwitterでは連載開始のことをお知らせしましたが、TwitterはともかくFacebookは友達限定ですので、それ以外の皆様が一体このブログをどこで存じ上げたのか? Google検索? 未だに仕組みがよくわかっていません。

twitter.com

 

Google検索といえば、関根タメヨさんや富田ユキさんを、ウィキペディアではなくブログで書き始めたのは、「Google検索であまりに検索数が少ない」ことが理由の一つでした。
現在検索してみると、当たり前といえば当たり前ですが、このブログがしっかりヒットするのですね。何かの折に関根タメヨさんや富田ユキさんといった人物を知った方々が、Google検索でこのブログにいらしてくださり、偉人たちの人生を知ってくださったなら、こんな嬉しいことはありません。

 

ちなみに第1章を知人に見せたら、感想は開口一番、こうでした。

「……これだけ?」

要は「短い」ということです。もっと章あたり長くても良かったでしょうか。個人的には、ほんの暇つぶしくらいに、ちょこちょこっと読める程度の長さを、と考慮したのですが……

 

章あたりの長さといえば、全11章それぞれの長さ、実は結構バラバラです。最初に大ざっぱに全体をテキスト化し、「サイズ的にここで区切りかなぁ…… でも物語としてまとめると、尻切れトンボになっちゃうし……」と結構苦労しました。連載って難しいですね。この辺、他のブログを読んで勉強させていただきたく思います。

 

さて第3弾以降ですが、果たして期待してくだる奇特な方々がどの程度いらっしゃるか、Facebookなどで質問しようかと思いましたが、辞めました。期待してくだる方々の有無にかかわらず、所詮は自己満足企画ですので、このまま続行させていただきたく思います。

ただし準備期間を要しますので、すぐには再開できません……すみません。

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑪(終)

(⑩より続く)

 

日本の経済発展の一方で、利益を求るばかりに過剰に自然が破壊されてゆくことを危惧しつつ、やがてタメヨさんは晩年を迎えていました。


この頃、同年代の近所のご老人たちは、パークゴルフや、連れ立っての旅行を楽しんでいました。

タメヨさんはそうした趣味を楽しむことも無く、自宅で新聞に隅々まで目を通し、社会の動向に目を配るか、斜里(しゃり)大自然を臨む縁側で、本を読むだけの日々を送っていました。時折目を休めては、斜里岳をじっと見つめました。口癖のように、よくこう言いました。

「生きとし生けるもの、すべてが自壊の道へ進んでいる気がする」

 

最晩年には、小清水町内の特別養護老人ホーム・愛寿苑で過ごした後、2002年(平成14年)10月、小清水日赤病院へ移されました。

死期を悟っていたのでしょうか。家族や親戚たちが見舞いに訪れると、とうに幻滅したはずの郷里への慕情を、しばしば漏らしていました。

狸森(むじなもり)に帰りたい……」

 

入院以来、重篤の報せが届くたび、何度となく家族や親戚たちが駆けつけました。

やがて酸素吸入器を付け、食事を受け付けなくなり…… 幾度となく死線をさまよいました。

 

2003年(平成15年)2月。長年同居した長男の正行さんは、毎日のようにタメヨさんを見舞っていました。病院で夜を明かした2月13日、その疲労を労う看護師さんから「今日はきっと大丈夫ですから」と声をかけられ、夜遅くに帰宅しました。

午前2時頃。タメヨさんの容態が急変との報せを受け、正行さん夫妻は急遽、病院へ駆けつけました。

到着からわずか10数分後のこと…… 正行さんたちを待っていたかのように、タメヨさんは2人に看取られつつ、永遠の眠りにつきました。

 

2003年2月14日、満98歳没。医師の診断は「老衰性自然死」。

 

明治、大正、昭和、平成と、4つの激動の時代を約1世紀にわたって駆け抜け、21世紀に至るまで逞しく生き抜いたタメヨさんの最期は、老衰による安らかなものでした。

「天寿を全うしての大往生だな……」

「おばあちゃん。ずっと働き続けて、疲れたでしょう? ゆっくり休んでね……」

他の子供たちや親戚たちも、後から駆けつけました。タメヨさんの安らかな死に顔を見て、こんな声が漏れました。

「今にでも起きて、畑仕事に行きそうだな」

 

小清水町の瑞雲寺で営まれた通夜と告別式は、町が始まって以来の盛大な葬儀となり、弔問客の数は千人を超えました。

タメヨさんの墓碑は、小清水町郊外の墓地で、夫の貞三郎(ていざぶろう)さん、父の忠助さんと母ソメさんの墓碑に囲まれ、タメヨさんが愛してやまなかった知床(しれとこ)の地を臨んで建てられました。

 

タメヨさんが手塩にかけて育てた子供たちは、9人とも健在。孫の数は16人に昇っていました。孫の1人は、タメヨさんを支え続けた北極星を指して言いました。

「おばあちゃんは、あの星になるんだよね」

 

タメヨさんの命日の2月14日は、バレンタインデーです。孫たちは祖母タメヨさんの柩に、小さなチョコレートを納めました。

日本でバレンタインデーのチョコレートの風習が定着したのは1970年代後半。タメヨさんの青春時代や、夫の貞三郎さんとの死別より、ずっと後のことです。

タメヨさんの三男の忠三さん(筆名 : 関根 圭)はご著書において、タメヨさんの生涯をこう締めくくっています。

 

「母は、あの柩のチョコレートを来世で、顔を赤らめつつ、父に贈ったことだろう」

 

タメヨさんと貞三郎さん、2人の初めてのバレンタインデーとして──

 

(終わり)

 

参考文献)

関根圭『ポラリスを抱いて』、新風舎、2007年5月25日、ISBN 978-4-7974-6158-9。

ほっかいどう百年物語 北海道の歴史を刻んだ人々──。』第8集、STVラジオ編、中西出版、2008年2月16日。ISBN 978-4-89115-171-3。

“関根タメヨさん(ヨミックス社長・関根忠三氏の母) 死去”. 読売新聞 東京夕刊 (読売新聞社): p. 13. (2003年2月14日)

“開拓の歴史、生きた母の姿 関根圭さん著「ポラリスを抱いて」”. 読売新聞 東京朝刊: p. 28. (2007年6月8日)

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑩

(⑨より続く)

 

高度経済成長を経て、時代は流れていきました。タメヨさんたちの命がけの開墾も、次第に人々の記憶から消え、過去の出来事となっていきました。

 

1970年代後半頃より、タメヨさんの関心は、観光ブームや開発と言っては破壊される日本の自然、自然破壊へと移って行きました。

「私たちもかつて自然を切り開いたが、それは生きるために必要だったからだ。必要の無い建物や道路を造るために自然を切り開くこと、それは自然の摂理に反するのではないだろうか?」

 

1977年(昭和52年)、ナショナルトラスト運動しれとこ100平方メートル運動」が展開されました。日本全国から寄付を募り、知床(しれとこ)の土地を100平方メートルずつ買い上げ、開発の手から知床を守る、との運動です。

当時の斜里(しゃり)町長・藤谷 豊氏は、この運動の責任者として、タメヨさんの四男、2007年(平成19年)まで斜里町の副町長を勤めた郁夫さんを起用しました。タメヨさんは藤谷氏と親交があったことから、この運動の構想に共感し、息子の背を後押ししました。同時に、タメヨさん自身も真っ先にこの運動に参加し、自費で知床の土地を購入し、運動の先駆者の1人となりました。

 

1981年(昭和56年)。小清水の大自然を守り、自然と人間との共存を目標とした「オホーツクの村」が誕生しました。このときもタメヨさんは率先して、運動の参加者の1人となりました。

かつてタメヨさんたちが踏み入れた北海道の地には、アイヌが先住しており、タメヨさんも幼い日々にアイヌの少女と親交がありました。しかしアイヌは和人との共存に失敗し、移住せざるを得ませんでした。

アイヌの残した自然を守ること。それがせめてもの恩返しであり、感謝の証であり、私たちの責任だ」

 

アイヌ民族の1人にしてアイヌ研究者でもある萱野(かやの)氏。萱野氏の国会議員時代の秘書・滝口 亘氏が、タメヨさんの子供たちの知人であり、タメヨさんは小学校時代、瀧口氏の母親と席が隣同士だったという、数奇な縁もありました。

 

1994年(平成6年)9月。皇太子様ご夫妻が知床を訪れ、羅臼(らうす)に登山されました。このとき、タメヨさんの孫娘の夫、斜里町環境保全課長の村田良介さんが案内を務めました。

この登山によって、知床の名が環境庁など関係機関に広まり、知床が世界遺産となる切っ掛けの一つになったともいわれています。

 

この1990年代から2000年代にかけ、タメヨさんの郷里の福島では福島空港が開港し、「うつくしま未来博」が開催されました。

空港開港時は「高速道路や新幹線が整備されている福島に空港が必要か?」との疑問の声が上がりましたし、未来博の跡地は分譲地として再利用されるはずが、ずっと手つかずの状態でした。タメヨさんは郷里の地が必要以上に開発の手で削られることに、疑問を抱くばかりでした。

 

タメヨさんは1972年(昭和47年)に長男の正行さん夫妻と、1984年(昭和59年)には三女のサダ子さんと共に、福島の狸森(むじなもり)へ帰郷したことがあります。空路の開通により、福島へは遥かに往来しやすくなりましたが、その空港建設のために、タメヨさんが幼い日々を過ごした山や森が切り刻まれ、川が埋め立てられました。その幻滅から、タメヨさんの帰郷は、生涯でこの二度きりとなりました。

 

長年にわたって自然と共に生きてきただけに、開発によってその自然が破壊されてゆくことを危惧しつつ、タメヨさんは晩年を迎えてゆきます。

 

(⑪へ続く) ※次回、最終回です

 

ファーム富田と富田ユキさん、など

早朝から多忙と予告しておいたら、予想以上の多忙で、本当に今日は「北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ」を休載して良かったと痛感しました。どこぞのプロの連載だと、こんな勝手な連載はできないのでしょうね。

やっと仕事を終え、予約した本が川崎図書館に届いたので帰り際に取りに行ったら、第3月曜でお休みだったり、確か曇りだった天気予報がいつの間にか雨になっており、雨に濡れて帰ったりと、今日は散々な帰り道でした。

 

さて一昨日のことですが、17日(土)『ブラタモリ』で、「ファーム富田」が登場しました! 先週、富田ユキさんのことを書いたばかりで、何というタイミングでしょうか。

www.nhk.or.jp

富良野ラベンダーが海外輸入物に押されて下火になり、その後、国鉄カレンダーに採用されて云々」本で読んだ通りだ! 本やネットで調べた人や物に、実際に出逢うのは不思議感覚ですが、それらがこうしてテレビに出るのもまた不思議感覚です。

富田ユキさんは家族ご一緒の写真で登場しましたが、さすがにお名前は出ませんでした。やっぱりマイナーかな…… せめて、サシェのことは触れても良いと思うのですが。

サシェといえば、富田ユキさんはネットに見当たりませんが、ファーム富田がサシェで持ち直したという情報はちらほら見かけたので、メモっておきます。

消えかけたラベンダー、再生への扉-紫薫るラベンダーの大地:北海道人

思いつづけることを止めれば、可能性もなくなる

ラベンダーを見に行こう !! “紫のじゅうたん” が広がる北海道・富良野へ - ライブドアニュース

テレビご登場はユキさんの息子さんの富田忠雄さんと思いきや、そのまた息子さんでした。ん、もしや? と思い調べ…… 恥かしながら、初めて富田忠雄さんの訃報を知りました。

富田忠雄氏が死去 ファーム富田会長:訃報:全国経済:qBiz 西日本新聞経済電子版 | 九州の経済情報サイト

ウィキペディアの新規記事を書く際、書くに値するかどうか、個人的に一つの目安にするのが、「全文検索してみて、そのキーワードがどこかで言及されているか」です。富田ユキさんはどこにも記述がありませんが、富田忠雄さんでしたら、ファーム富田などにあるのですよね。

富田忠雄さんの記事を立項し、その中で母親についてに触れ、「富田ユキ」を立項する、という手段もアリでしょうか。

 

さて明日からは「北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ」再開予定。

再開といっても、いよいよ終盤です。物語も、タメヨさんの生涯も、

 

雑感

明日の11月19日(月)は早朝より本業が多忙予定ですので、思い切って本日(18日)は⑧⑨同時掲載とし、19日(月)は休載予定とさせていただきました。

北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑧

北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑨

 

関根タメヨさんの連載を始めて以来、急に読者が増えました。「スター」って言えば良いのでしょうか、あれを付けていただくことも増えました(←先月はてなブログを始めたばかりで機能が全然わかってない)。「読者数が少なくても気にしない」などと大口を叩きながら、「お知らせ」が届くので目に入ってしまいます。こんな駄文を読んでくださり、心より感謝です。ありがとうございます。

 

タメヨさんの連載を続けながら、情報源の伝記を読み続け、やっぱりこの人はウィキペディアに書くべきかなぁ……と考え中です。しかし百科事典的に、客観的に、私情を抜いてウィキペディアに書くとすると、今までの記述は大幅に端折るだろうと思います。ドラマ的には面白く思うけど、特に社会に貢献したとか、こうした人生が第三者のどなたかから幾度も大きく評価されている、というほどでもありませんので(少なくとも現時点ではそうした資料を発掘できていない)。

 

ウィキペディアでの最近の動向ですが、昨日17日(土)は「ウィキペディアタウン in 秋葉原」開催日でした。参加するか迷いましたが、今回は席を外させていただきました。

ウィキペディアタウン in 秋葉原 Vol.1 〜11/17開催!参加費無料!〜 | Peatix

実は先日の「第2回wikipediaブンガク」の懇親会の席で「この記事を書きます!」と言ってしまった手前、その資料の捜索で昨日は1人、図書館を奔走しておりました。いざ書き始めると、門外漢の記事ですので難航中です。「書く」と言ってしまったのは、酒の勢いもあったのかなぁ……

 

話は変わって先日触れた、僕の郷里の小樽の名犬「ぶん公」、博物館に剥製があるとのことで、撮影して記事に掲載し、記事に彩りを添えようと目論んでおりました。

博物館宛てにメールで問合せると「申請すればウェブ上に掲載OK」とのこと。初版投稿者のS女史に報告したら喜んでいただけましたが、その後「申請して掲載って、ウィキペディア上ではどうしたらいいんだろう」と思い、ウィキペディア上で質問を投げかけたところ、紆余曲折を経て、掲載NGとなりました。

Wikipedia:井戸端/subj/施設内写真の画像掲載に申請を要する場合 - Wikipedia

S女史を糠喜びさせてしまい、申し訳なく思っております。ちゃんと掲載が完全OKとなってから報告すべきでした……

最終的に掲載NGとなったものの、博物館は掲載可否の問合せに対して真摯に対応してくださり、感謝しております。良い施設です。この博物館を盛り上げるため、小樽へ旅行する皆様、ぜひ小樽市総合博物館へお立ち寄りください(←単なる郷里の宣伝)。

小樽市 :小樽市総合博物館

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑨

(⑧より続く) ※都合により本日も⑧⑨同時掲載、11月19日(月)は休載予定です

タメヨさんの父の忠助さんが急逝した同1952年(昭和27年)。タメヨさんの長女の光子さんが、国鉄職員とお見合いで結婚しました。次いで次女のタツ子さんが結婚。三女のサダ子さんもお見合いで結婚に至りました。1958年(昭和33年)5月、正行さんが結婚しました。

タツ子さんのご主人は小学校教師でしたが、結婚の数年後に退職して家業を継ぎ、同時にタツ子さんと共に創価学会へ入信しました。当時の創価学会への批判は現在以上のものでしたから、タツ子さんたちは周囲から、そして兄弟たちからも非難されました。しかしタメヨさんは、タツ子さんを批難するどころか、他の兄弟たちを戒めました。

「日本の憲法で信仰の自由は保障されている。何も恥じることはない」

タメヨさんはタツ子さんだけでなく、子供たちみんなの進路に、常に寛容でした。

「うちは根っからの貧乏。何事も努力してつかみ取るしかない。ただ、世間に疎まれること、後ろ指を指されることだけはしてはいけない。そのようなことをしたら、親子の縁を切る」

 

自分の子供を決して不幸にしまいと思ったのでしょう。四女の孝子さんが結婚後に貧乏生活を強いられ、「何々が無くて困っている」と漏らすと、タメヨさんは自分がどんなに貧乏でも、必ずその品物を送りました。

 

次男の建二さんは、苦学しながらも札幌へ出て働き始めました。関根家では忠助さんと建二さんだけが、喫煙の習慣がありました。タメヨさんは、3か月に1度は必ず建二さんに手紙を書き、息子の身を常に案じ、特にタバコの吸い過ぎに気を付けるよう書いていました。もっともタメヨさんはそう言いつつも、建二さんがたまに帰省すると、わざわざ繁華街まで出かけてタバコを買い、内緒で建二さんに贈っていました。

 

長男の正行さんの長女、タメヨさんの孫娘である由香さんは、中学校卒業まで、登校前には必ずタメヨさんが髪を編んでくれました。バス通学が始まると、タメヨさんは由香さんの帰りを心配し、毎晩のようにバス停留所で帰りを待ちました。病気で入院すれば、タメヨさんは何週間も寝ずの看病を続けました。孫を可愛がる優しいお婆ちゃんでもありました。

 

タメヨさんが喜寿を迎えた頃、最後に末っ子の郁雄さんが結婚。9人の子供たち全員が結婚しました。

 

おめでたい結婚話の反面、1965年(昭和40年)には、母のソメさんが他界という悲報もありました。自分の信念を貫くタメヨさんに対し、細やかな愛情の持ち主だったソメさんは、タメヨさんの子育ても常に支えていました。そのソメさんの死は、タメヨさんによって大きな打撃でした。

 

(⑩へ続く)