執筆記

ウィキペディア利用者:逃亡者です。基本的にウィキペディア執筆に関しての日記です。そのうち気まぐれで関係ないことも書くかもしれません。

Wikipedia Day企画 ウィキペディアンが「棚から一掴み」してみたら (簡略版報告)

あけましておめでとうございます(いくら何でも遅すぎ)

執筆もブログも手を休め、こちらのイベント登壇の準備をずっと進めておりました。

wikipediaday18.peatix.com

前回報告、昨年12月22日の第20回ウィキペディア街道「大山道」後の宴で発案された話でした。

簡単にいえば「ウィキペディアン(ウィキペディア執筆者)8人が登壇。自分の本棚の中から、過去の記事の執筆に使った本を1冊を選び、その本について熱く語る」というものです。

よく考えたら、登壇を依頼されたおぼえも、承諾したおぼえもありませんが、いつの間にかしっかり登壇者の中に入っており、後にはひけなくなりました。

酒の勢いも入っていたんだろうなぁ……

 

昨日の1月20日(日)、六本木の会場にて、過去にブログで一度だけ触れたこの本を、全力で紹介させていただきました。

地球の秘密 - Wikipedia

www.e-hon.ne.jp

良質な記事ではなく、月間記事賞も受賞せず、その候補にすらならなかった記事です。

それでも僕の持っている中では間違いなく最強の本、1人1冊紹介するなら、これしかないといえる本です。

 

相変らず喋りが苦手ですのでカンペを書きましたが、練習で声に出して読みあげてみると、涙がボロボロ出てきまして……

時間が明らかにオーバーするので(1人15分)、内容をかなり削り、練習ではやっとまともに読めるようになりましたが、本番ではやっぱり気持ちが入りすぎ、恥かしながら涙ぐんでしまい……

出席者皆様、みっともない姿をお見せしてしまい、失礼いたしました。

 

紹介準備と合わせ、貧相だった記事は全力で加筆しました。

昨晩本番後の宴では「8万バイトに増やした」と言って驚かれましたが、確認したら、嘘でした。

お詫びして訂正させていただきます。9万バイトでした(もっと多いじゃないか)

12歳の女の子の記事が、なぜ100歳以上まで生きた中川イセさんより多くなるのだろう?

 

本番までの準備や記事加筆の顛末は1日では書ききれず、また時間がとれたとき、書きたいと思います。

 

週末~3連休、執筆尽くしの日々

気づけば、ブログ更新を2週間もさぼっておりました。

 

12月21日(金)、先日見学した「まぼろし博覧会」を書き上げました。

まぼろし博覧会 - Wikipedia

画像があるのと無いのとでは大違いですね。

自分の目で見たことや実体験はウィキペディアの出典にはなり得ませんので、「見学せずに資料のみで書くだけでも十分ではないか?」と考えたこともありますが、やはり実際に見学に行って写真を撮ったことは正解でした。

Facebookでもご指摘を受けましたが、出典に用いた資料の大部分がネット上のニュースサイトや新聞であり、書籍や雑誌での出典があまり多くなかったのが辛いところです。

またニュースサイトにしても「ここは来園者がみんなド肝を抜かれる超カオス空間だぁ~!」みたいな感じの表記が多く、それを百科事典的な記述に落とし込むのはなかなか、至難の業でした。

 

なぜそれを21日(金)に必死に書いたか? それはイベント参加にあたり、記事の1個も書き上げていないと格好がつかないと考えたからです。

翌22日(土)は久々、ウィキペディア関連のイベント参加でした。

wikipedia-road-20.peatix.com

後でリンク先を読んだら「過去参加経験者を対象に開催します」だそうでした。考えてみたら、僕の参加回数はたったの1回でした……ずかずかと過去参加経験者ヅラして参加して申し訳ありません。そんな僕を快く受け入れてくださった参加者皆様、ありがとうございます。

今回の作成記事は新規2件です。

日向石 - Wikipedia

大山こま - Wikipedia

僕は鉱物関係は無理と思い、「大山こま」チームに参加しました。当日朝の内にフリー画像で、職人さんが大山こまを作っている画像を入手できたことは幸運でした。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0b/Making_Oyama_Top.jpg

一方で「日吉石」チームは、唯1人のベテラン執筆者が諸々のご事情により執筆が困難なご様子でした。鉱物関係が不得手であっても、ウィキペディア執筆サポートとしての立場から、公平にあちらに参加すべきだったかと後悔が残ります。

夜は懇親会と称して焼鳥屋へなだれ込み、焼鳥やチーズタッカルビでの宴となりました。こうした集まりへの参加はあまり多くないもので、恥ずかしながら初めて食しましたが、チーズタッカルビ、美味ですね。記事を書きたくなります。

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これまでの振り返りと共に、来年に向けての話などで大盛り上がりでした。まだオープンにはなっていないので詳細は書けませんが、どうやら来年も、公私共に忙しくなりそうです。

 

思い返せば今回は、無口なはずの僕が、不思議なことに執筆中も比較的発言でき、懇親会では大笑いすることもありました。2015年12月に初めて執筆者皆様に逢ったときは借りてきた猫のようでしたが、もう3年ですので、いい加減に慣れたということでしょうか。良いことです。

 

12月23日(日)。「大山こま」の書誌情報が不足とのご指摘を受け、早速図書館へ再調査に向かいました。

ノート:大山こま - Wikipedia

別に即調査・即修正する義務は無いのですが、楽しく過ごせたところに水を差されたようでムキになった、という気持ちは否定できません……我ながら大人げない。

 

この日は先日書きあげた「まぼろし博覧会」を新着記事に掲載していただきました。なんと9票も入れていただいて、館長のセーラちゃんも喜んでいらっしゃることでしょう。

Template:新しい記事 - Wikipedia

 

12月24日(月・休)。かねてより書き続けた「クリスマスブーツ」を投稿しました。

クリスマスブーツ - Wikipedia

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新規投稿日時が12月24日(土) 00:00という芸の細かさ(自分でいうか)。実はパソコンのそばに電波時計の置時計を用意し、「あとは投稿ボタンを押すだけ」の状態にし、数分前から待機しておりました。

 

この記事は何といっても、滋賀県草津市のイベント「クリスマスブーツギャラリー」、および同市でこの時期に飾られている巨大クリスマスブーツのオブジェの写真を用意できたことが幸運でした。

草津にこれらがあると知ったとき、さすがに草津は遠いなぁ…… と悩んでいた頃、ふと、今年ウィキペディアのイベントで知り合ったSさんを思い出しました(以前書いたイニシャルSさんのどなたとも異なります。Sさんが多くて紛らわしい(^^;)。無理を承知で撮影してくれないか頼んだところ、快諾していただけた次第です。

もう十分すぎるほどたくさん撮っていただけましたが、あまり画像をたくさん載せすぎて「ウィキペディアは写真集じゃない」といわれた記事の例を過去に見かけましたもので、掲載は少数にとどめました。

せっかくですのでSさんご提供の内、ウィキペディアに掲載しなかった写真を2点。Sさんご覧になってますか?(^_^)/ 今度ブログで他のSさん皆さんと区別して何と呼ぶべきか相談させてください(^^;

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記事中で福島県伊達市のクリスマスブーツギャラリーに言及した以上、今度は伊達市の方の画像が欲しくなります。ただでさえ人脈に乏しい僕、東北となると皆無ですので、自分で行くべきかと乗換案内を検索すると、こ、これは遠い! 画像提供依頼で済ますのが無難そうです。

 

この記事でも数日前に、パブリックドメインのフリー画像でクリスマスブーツのイラスト画像を入手できていたことが幸いでした。

gahag.net

代表的な画像として、ベーシックなブーツの画像が欲しかったのですが、そこいらのコンビニのクリスマスブーツって、ディズニーだのドラえもんだのプリキュアだのキャラクターものばかりで、著作権的にヤバいんですよねぇ……

 

また、この24日は一昨日のイベントでの「大山こま」が新着記事に載りました。ウィキペディア街道での記事が新着記事に載り、有終の美を飾れたでしょうか。同イベントに計2回しか参加していない僕が偉そうに言うのも何ですが(^^;

Template:新しい記事 - Wikipedia

 

12月25日(火)。クリスマスブーツがたった1日で7票を集め、新着記事に掲載していただけました。

Template:新しい記事 - Wikipedia

同日は、他の利用者様のご執筆によるハワイのクリスマスが新着しており、実にクリスマス当日にクリスマス関係の記事が2つ同時に掲載という奇跡でした。

こうなったら来年のクリスマスも、クリスマス記事を書くしかありませんね。「クリスマスイブに向けてクリスマス記事を書こう」と考えたとき、「皆が知っている、皆が見かけたはず、でも記事がない」という題材を3つ思いつきましたが、さすがに同時に複数は厳しいので、今年はクリスマスブーツ1本にしぼりました。残りはあと365日間かけてのんびり書きましょう。残り2つのうち1つは来年、もう1つは再来年でしょうか?

 

共同執筆も含めて、自分の手掛けた記事が3日連続の新着掲載。さすがに今年最終週は記事執筆の予定はありませんので、良い気分で今年の執筆を終えることとします。

 

それでは皆様、メリー・クリスマス。

静岡、熱海・伊東、取材紀行

昨日の12月8日は、かねてより温めていた、静岡のウィキペディア題材の取材の日でした。

 

3時台に起床。シャワーの後、京急線東海道線を乗り継いで人生初・静岡県を目指し、8時近くに熱海駅に到着。

「朝バナナ」のみでとっとと朝食を済ませ、駅前の足湯に呑気に浸かっていたところ、メッセンジャーで連絡が入ったので、レンタカー店の前へ移動し、執筆者仲間のN氏ご夫妻、S女史と合流。

N氏の奥様の運転で移動し、S女史お勧めの関東大震災の慰霊碑、釈迦堂などを回りました。僕が温めているウィキペディアのネタのいくつかも、関東大震災を経緯として現在へ至るものがいくつかあり、興味深いです。

 

関東大震災の痕跡の一つ、根府川駅についてはウィキペディアにも、震災について記述があります。

根府川駅 - Wikipedia

 

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(根府川駅関東大震災慰霊碑)

こちら根府川駅の駅員さんが、慰霊碑などの所在を事細かく教えてくださり、とにもかくにも超──いい人です。手書きのコピーらしき地図を何枚もご用意くださるという、ご用意周到さです。この駅員さんなくして、今回の取材は成功し得なかったでしょう。根府川駅をご利用の方々、秋にはこの駅員さんが駅前でいつも、落ち葉をほうきで掃いていると思いますので、ぜひ一度ご注目ください。

 

ここまで調子に乗って写真を撮りまくったら、デジカメのメモリが一杯になったので、午後の取材に備えて全部消しました……画像はFacebook投稿のスマホ撮り使い回し1枚のみで、申し訳ありません。

 

お昼はN氏お勧めの回転寿司へ。郷里の小樽以外の回転寿司は久しぶりですが、いつもグルメにこだわるN氏だけあり、安く美味しく、十分堪能しました。「トウジン」なる深海魚もありました。ウィキペディアによると正しくは「ゲホウ」というそうです。

ゲホウ - Wikipedia

(2019.12.7付記 : ノート:トウジン (魚)での議論を経て「トウジン」に改名されました) 

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現在、画像提供依頼が行なわれていますが、寿司の画像なら投稿できます──が、生きている状態の画像の無い状態で、調理後の画像だけ貼るのってどうなのでしょう。なんだかピーターラビットのお父さんみたい……

全文表示 | 本当は恐い?ピーターラビットに仰天 父親はパイに、甥たちも「皮をはいで頭を…」 : J-CASTニュース

(2019.6.17付記 : 本記事の執筆後、ちゃんと生きている状態の画像が掲載されました) 

 

午後は僕のわがままで、半年近くずっと憧れていた、知る人ぞ知る伊東のB級スポット中のB級スポット「まぼろし博覧会」に、ついにやって来ました。もう、この日を夢見て多忙な仕事を乗り越えたといっても過言ではないでしょう。

館長のセーラちゃん(データハウス社長・鵜野義嗣氏)、ツイッターによるとお風邪で体調の悪い中、気さくに出迎えてくださり、記念撮影にも応じてくださり、大感謝です。

まぼろし博覧会」とは……各メディアやニュースサイトでも報じられていますので、今さら説明するのは野暮でしょうか。お金を払って入館する前からすでにこの光景ですので、館内の様子は推して知るべし、です。

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(まぼろし博覧会、受付前)

セーラちゃんはお風邪ですのに、僕たちの帰りのときも気さくに話しかけてくださり、車を出すときには盛大に旗を振って見送ってくださいました……もう、何度頭を下げても足らないくらいです。このご恩は忘れません。ウィキペディアにて「まぼろし博覧会」の記事、全身全霊を尽くして書きましょう。

 

その後は同じくデータハウスの営む「ねこの博物館」「怪しい少年少女博物館」を回りました。伊東のディープな面をたっぷり堪能、もう、おなかいっぱいです。サブカル好きな人間にはたまらない1日です。あまりの濃さに、時計を見て「えっ、まだこんな時間!?」と思うほどでした。

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(怪しい少年少女博物館)

 

その後、夜は和食屋で天丼や焼魚定食を楽しみ、東海道線にて再会を約束しつつ、帰途に就きました。

 

ご同行のN氏ご夫妻、S女史、この場を借りまして、僕のヘンな趣味に付き合わせてしまい、心の底から申し訳無いです……でも僕は大満足です。いえ、嘘です。1日では足りないのでまた行くと思います。「まぼろし博覧会」は季節ごとにイベントがあり、正月にはヘンな汁粉、夏にはヘンなかき氷を出すのらしいで、その時がねらい目でしょうか。でも正月は帰省で行けないし、夏は館内がかなり蒸し暑いそうなのですので、悩みどころです。

 

今回お付き合いいただいた皆への恩返しのため、帰省時には皆の投稿した記事のために「中城ふみ子」や「ぶん公」など、小樽の写真は必ず撮らねば!と、使命感を抱いて年末の帰省に臨みます。

 

なお今回のタイトルは、漢字変換の1発目で「取材奇行」になりましたが、ある意味「奇行」かもしれません。

 

過去記事のこと「山本幡男」など

執筆者仲間の某氏のブログを読みつつ、やはり記事を書くのに何年もかかることがあるのだなぁ……と感じております。僕が数年をかけた記事といえば、シベリア抑留経験者の「山本幡男」氏が思い浮かびます。この方は最初に本を読んだとき「これ、書きたい…… でもこんな凄い人、僕に書けるか!?」と思い、少し書いてみて挫折。しばらくして挑戦して、また挫折…… を繰り返し、結局書き上げたのは2年後でした。

山本幡男 - Wikipedia

この方は遺書の内容に非常に心を打たれて「日本男児たるもの是非これを読むべし」と思い書き上げました。氏の息子さんのウェブサイト(恐れ多いことに僕の記事へリンクして頂いてます……)に遺書の全文が公開されています。特に「子供等へ」のくだりは、山本氏のお子さんたちのみならず、後世の日本人すべてに向けての言葉と解釈しています。僕もいろいろ迷いそうなとき、しばしばこの遺書を読みます。日本男児としてお生まれの方々、僕の駄文の記事など読まずとも結構ですので、遺書は是非一度、お目をお通しください。

遺書

 

この山本幡男氏の記事はありがたいことに「良質な記事」に選定していただきましたが、執筆に長くかけたから良質な記事になるとは必ずしも限らないようです。今年6月に良質な記事としていただいた「渋谷黎子」氏は、今年のゴールデンウィークの帰省時、飛行機の機内での暇つぶしに文庫本を買って、それを読んで偶然知った後、6月初旬にウィキペディアタウンのイベントがあり「皆さんにお逢いするには新記事の一つでも書かないと格好がつかない」と思い書き上げました。つまり1か月もかかっていないにも関らず、良質な記事に選定していただきました。ついでにいうとこれは今までで一番長い記事です。25歳で早世した人物がなぜここまで長くなったか……?

渋谷黎子 - Wikipedia

さらには、執筆者仲間N氏の大のお気に入り「なんちゃっておじさん」に至っては、1週間で書き上げた次第です。

なんちゃっておじさん - Wikipedia

 

ところで最初の山本幡男氏の話に戻しますと、僕は時折り、初版投稿の日時をわざと選ぶことがあります。

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山本氏の命日にこの記事を捧げたなんて、どなたも気づかないでしょうね(^^;

 

雑感

FacebookTwitterと違って、ブログだといつもタイトルに悩むのですよね……(^^; いわゆる人気ブログを読むと、タイトルだけで惹きつけられるものが多々あり、そうしたセンスが欲しいなぁと思う今日この頃です。

 

先日触れた函館盲唖院跡地の画像は早速、佐藤在寛先生の記事に活用しました。

「佐藤在寛」の版間の差分 - Wikipedia

File:Hakodate moain ato.jpg - Wikimedia Commons

この画像をウィキメディア・コモンズにアップロードするにあたり、日付を「2018年9月25日」と記載するからには、「彼は9月の連休中に小樽に滞在したはずが、なぜ函館の写真を撮影しているのだろう?」と周囲に勘ぐられのではないかと危惧し、函館に行ったことをこの場で暴露したのが真相です(←小心者)。

 

さて最近の執筆活動ですが、どうしても今月中にウィキペディアの方で書き上げない記事がありますので、そちらに専念することにして、好評かどうかはわかりませんが「人間って、おもしろい」シリーズは来年以降とさせていだきます。以前も申しましたが、好き勝手に掲載時期を決められるのが個人ブログの強みですね。

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北海道を拓いた偉人たちの歴史を綴る愛読書『ほっかいどう百年物語』を、図書館で読むだけでは飽き足らず、とうとう自前で全10巻(古本ですが)揃えてしまいました。大勢の偉人たちを前に「これはウィキペディアで書くか、これはマイナーなのでブログのネタで小説仕立てで展開するか」と目下、試行錯誤中です。

北の大地はまだまだ宝の山です(^^)

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (3) 戦火に散った若き命・森稔 (後編)

(前編より続く)

 

人間魚雷「回天(かいてん)」による出撃が下った、同1944年(昭和19年)12月。

森さんたちは、最後の帰省が許可されました。戦時下ではとても北海道まで行けず、東京で落ち合うよう、家族宛てに連絡をとりました。

 

東京で、母と兄が森さんを迎え、久しぶりに家族3人が出逢いました。

 

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(森さん〈右〉とお母さん)

 

森さんは最後の親孝行のつもりで、給金を差し出しました。

「母さん。小遣いに持ってきたんだ。受け取ってよ」

「そんな。あなたが一生懸命稼いだお金なんて、受け取れないわよ。それより、お父さんからお小遣いを預かって来たの。何か、好きなことに使って」

母子共、お互いに受け取りを拒んでばかりでした。そこへ兄が助け舟を出し、2人分の金を合せて短刀を買い、お守りとして森さんに贈りました。

「ありがとう。大事にするよ」

 

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(森さん〈右〉とお兄さん)

 

家族水入らずの時間に、次第に別れの時刻が迫ります。

「そうだわ。せっかく東京に来たんですもの。靖国神社へお参りに行きましょうよ」

「いや、いいよ。どうせ、すぐ帰って来るから」

靖国神社といえば、軍人や戦死者を祀る神社です。

(俺はじきに、あの神社に祀られる。今はできるだけ長く、母さんの姿を見ていたい……)

回天や特攻は軍の最高機密であり、他言無用として、家族相手にすら口を封じられていました。森さんは家族と過ごす最後の時まで、回天のことも特攻のことも話すことなく、心の中で密かに、母に永遠の別れを告げました。 

(母さん、今まで俺を育ててくれて、ありがとう。今度は、俺が母さんを守る番だ!)

 

森さんは帰省から基地に帰ると、土産に、2つお揃いで買った木彫りの熊のキーホルダーの1つを、親友の三枝さんに贈りました。

「これを持っていてくれよ。俺たちの友情の証だ」

「大事にするよ。ありがとう」

 

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(森さん〈左〉と三枝さん)


同1944年11月の回天の初出撃を経て、翌12月、ついに森さんたちの出撃が迫りました。

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(出撃前日、神社での拝刀)

 

12月30日。森さんや三枝さんたちを乗せた潜水艦は、予科練の先陣を切って基地を発ちました。

三枝さんが、森さんに言いました。

「こんな時代じゃなかったら、もっと勉強していたかったな……」

森さんは無言のまま、いつものような天真爛漫な笑顔で応えるのみでした。

 

潜水艦は、南海方面へ向かっていました。森さんと三枝さんは、上官にこう話していました。

「自分たちは、日本では見られない、南国の夜空の星を知りません」

南十字星を見るのが楽しみであります」

 

やがて回天での出撃が迫ったある日、森さんと三枝さんは、潜水艦の航海長に尋ねました。

「航海長、南十字星はどの星ですか?」

「うむ、教えてやろう、あの星だ」

航海長は森さんたちを艦橋に連れて行き、南海に輝く南十字星を指しました。森さんたちはそれをじっと見つめ、さらに北天に輝く北斗七星と北極星に視線を移し、それらをずっと眺めていました。

南十字星を見る夢が叶いました。航海長、ありがとうございました!」

「ありがとうございました!」

森さんたちは航海長に何度も礼を言って、艦内に戻りました。

 

年が明けて、1945年(昭和20年)1月12日。

潜水艦はグァム島北西部の港を目指していました。目的は、この港での敵艦への特攻。森さんたちはすでに、回天へ乗り込んでいました。

 

艦長からの命令が下りました。

「発進、始め!」

艦長は通信の声に耳を澄ませましたが、森さんからの声はありません。

無言のまま、森さんの回天が発進しました。

 

森さんがその後、どうなったか── 正確な記録は残されていません。

 

軍にとって極秘事項であった回天や特攻が、森さんの家族宛てに伝えられたのは、それから約2か月後、同1945年3月でした。

1945年1月12日、森 稔さん、戦死。満18歳没。 

 

終戦後の1968年(昭和43年)、大津島に回天記念館が開館しました。入口へ続く小道の両脇の石版には、回天による戦没者、計145名の名前が刻まれています。 

 

森さんは出航の前夜、兄に宛てて遺書を書いていました。

この遺書の結びの短歌が、森さんが家族に宛てた最期の言葉となりました。

 

「大君の 御盾となりて 征かむ身の 心の内は 楽しくぞある」

 

参考文献)

三枝義浩 『語り継がれる戦争の記憶』1、講談社〈KCデラックス〉、1995年11月。ISBN 978-4-06-319638-2。

鳥巣建之助 『人間魚雷 特攻兵器「回天」と若人たち』、新潮社、1983年10月15日。ISBN 978-4-10-349101-9。

行方滋子「予科練訪問記 第五回 (PDF) 」 、『月刊豫科練』第428号、公益財団法人 海原会、2015年5月1日、 NCID AA12535565、2018年11月18日閲覧。

宮本雅史 (2007年6月6日). “誰がために散る もう一つの「特攻」(2) 死の宣告 孤独と恐怖…押し寄せ”. 産経新聞 大阪朝刊 (産業経済新聞社): p. 27

ほっかいどう百年物語 北海道の歴史を刻んだ人々──。』第四集、2004年3月31日。ISBN 978-4-89115-123-2。

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (3) 戦火に散った若き命・森稔 (前編)

初っ端からネタバレしますと、今回は太平洋戦争の戦死者の話です。

これを「おもしろい」と題するのは不謹慎と言われそうですが、もちろん戦死のことをゲラゲラ笑って滑稽に感じたわけではありません。この人物に非常に興味をもったのです。 辞書では「おもしろい」は「興味深い」との意味もあります。正直申しまして改題も検討しましたが、敢えて「おもしろい」で通させていただきます。

 


 

太平洋戦争も日本の敗戦濃厚となった戦争末期。旧日本軍で起死回生、状況打破として考案された作戦の一つに、神風特別攻撃隊に代表されるであろう「特別攻撃隊 (特攻)」があります。

軍人や役人はいうにおよばず、民家の一般人までが戦争を賛美し、戦争反対などと誰1人言わなかった時代……とはいえ、死ぬことが義務だった特攻隊員の心情とは、どんなものだったのでしょうか。その特攻隊員の中に、20歳に満たない少年がいました。

 

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(みのる)さん。

 

1926年(大正15年)5月18日、北海道赤平村(現・赤平町)で、町の名士の次男(※)として生まれました。学生時代は学業に励み、体格にも恵まれ、スポーツ万能でした。その上に性格は裏表が無く、天真爛漫で、皆に好かれました。

 

1937年(昭和12年)、日中戦争が始まりました。当時の少年雑誌には、空を舞う戦闘機や、それらを駆る兵士たちが、勇敢な姿として描かれていました。少年たちにとって戦闘機のパイロットはまさにヒーローといえ、みんなが憧れを抱いていました。森さんもまた、その1人でした。

「俺は戦闘機乗りになると決めた! そして空の上から、皆を守るんだ!」

 

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(1939年(昭和14年)、中学入学当時の森さん。まだ純真に戦闘機乗りに憧れていた頃)


1941年(昭和16年)、時代は太平洋戦争へ突入しました。近所の男子たちが次々に召集され、出征してゆきました。後には女、子供、老人が残るばかりでした。森さんにとって、軍に入ることはかつての夢でしたが、次第に現実味を帯びてきました。

「みんな、家族を置いて戦争に行かなければならないんだ…… 俺があの人たちに代ってやれたら、どんなにいいだろう」

 

1943年(昭和18年)。森さんは海軍の甲種飛行予科練習生、通称「予科連」を受験しました。これは海軍創設による航空兵養成機関で、いわば航空兵への最短コースです。

海軍飛行予科練習生 - Wikipedia

森さんは見事、予科練に合格しました。合格を決めた日、学校からの帰りの汽車内で、下級生を呼び止めて言いました。

「お前、鞄を持っていないんだろう? 俺はもう要らないから、やるよ」

帰宅時には、森さんは鞄を持って自宅を発ったはずが、教科書やノートを紐で縛って肩から提げており、母を驚かせました。

「稔。あなた、鞄はどこへやったの?」

「俺はもう要らないから、鞄の無い奴にあげて来た」

隣人愛にあふれ、困っている人を見捨ててはおけない。それが彼の性格でした。

 

この予科練時代に、休暇がありました。森さんは赤平の叔父さんのもとを訪ね、こんな会話を交わしたそうです。

「稔。お前は何年くらいで少尉になれるんだ?」

「叔父さん、少尉なんてなれませんよ。俺はいずれ死ぬんですから。今は、その死ぬ方法を練っているんです」


やがて戦争は激しさを増し、日本は物資不足に喘ぎました。予科練も例外ではなく、飛行機や燃料の不足から練習にも事欠きました。そのため、2年4か月で訓練を終える予定が、その約3分の1、たった9か月で繰り上げ卒業が決定しました。

 

卒業間近の1944年(昭和19年)。予科練で、新兵器への搭乗者の募集がありました。

戦況打破、敵軍撃破のために開発された新兵器への搭乗者の募集。

ただし、生還を考慮せず開発された兵器のため、熟考の上で応募せよ──

「敵軍の本土上陸を阻むためなら、どんなことでもやってみせる!」

森さんは、迷わず応募しました。このとき応募者は、全体の90パーセント以上だったといいます。

 

予科練を卒業した森さんたちは、瀬戸内海の大津島の基地へ配属されました。

この基地で森さんたちへ、その新兵器が初めて公開されました。

回天(かいてん) - Wikipedia

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(画像はウィキメディア・コモンズより)

当時の魚雷は命中率が低かったため、有人に改造した魚雷に兵士が乗り込んで直接操縦し、兵もろとも敵機に体当たりする人間魚雷です。破壊力は、戦艦を撃沈するのに十分でしたが、搭乗する兵士はもちろん、撃沈と共に命を落とします。

森さんたちは改めて、出撃すれば本当に、絶対に生還不可能と知らされました。

上官からは「辞退者は責任をもって原隊に帰す」と言われましたが、森さんを含め、辞退者は皆無と伝えられています。

 

森さんたちは大津島で、回天の操縦の練習に励みました。操縦は困難を極めました。海中に入ったが最後、視界はゼロであり、傾斜計で角度を、砂時計で距離と時間を測るのみでした。

「敵の上陸を阻むため、大勢の人々の命を守るためだ。何としても、この困難を乗り越えてみせる!」

森さんはその頭脳と恵まれた体力で、操縦訓練をこなしてゆきました。

 

この年、森さんに命令が下りました。幸か不幸か、鍛え抜かれた抜群の操縦技術により、予科練からの初陣として選抜され、同1944年12月に出撃するよう、命令が下ったのです。

 

その後のある日、基地で演芸会がありました。森さんは滑稽な歌と踊りで、皆を爆笑させました。すでに特攻の命令を受けていながら、明るく振る舞う森さん── 基地内で親友となった三枝 (まこと)さんは、彼の度胸に驚いたといいます。

 

(後編に続く)

 

(※次男ではなく三男との説もあります)