前回の富田ユキさんは思いがけず、「特筆性があるのでは」と言われました。ウィキペディアで書くことを躊躇する理由は、Google検索での検索数の少なさもさることながら、参考文献に挙げた2冊の内、『わたしのラベンダー物語』が、ユキさんの長男・富田忠雄氏ご自身のご著書であること。もう1冊の『ほっかいどう百年物語』も、文末に挙げられている参考資料が、忠雄氏の『わたしの~』と、忠雄氏からの聞き取り。第三者視点でのユキさん像が欠けているのが苦しい、と考えている次第です。
今回の人物もまったく同様です。現在発見されている資料2冊、片方は著者が息子さん。もう片方はその息子さんの著書と、息子さんからの聞き取りをもとにしたもの。ただこちらは、書の中で市史や町史のことが引用されています。富田ユキさんについてご助言を頂きました通り、そうした市史や町史、あるいは郷土史などをあたれば、ウィキペディアの記事に仕立て上げられそう、と考えています。それまでの下書きとして、お楽しみいただければ、と思います。
2005年(平成17年)7月、北海道
(画像はウィキメディア・コモンズより)
この知床に隣接する
(画像はウィキメディア・コモンズより)
この北の大地を明治時代から開拓し、晩年には自然を守り抜くことに生涯を捧げた女性がいます。
1904年(明治37年)11月8日、福島県大東村(現・須賀川市)
誕生時のご家族は、父親の忠助さん、母ソメさん、タメヨさんの3人。1911年(明治44年)夏、父の忠助さんが、突如として失踪しました。博打好きの忠助さんは、700円~800円、平成期でいえば数百万円に値する多額の借金を作ってしまい、妻子を置いて借金取りから逃げたのです。タメヨさんは泣きながら、母ソメさんと共に母方のご実家に身を寄せました。
その年の10月。母ソメさんまでもが、タメヨさんに「必ず迎えに来るから」と言い残して、福島を去りました。忠助さんは北海道へ逃れており、密かにソメさんに手紙を送っていたのです。間もなく祖父が病気で他界。幸いにも祖母のシカさんが、孤独な境遇となったタメヨさんを想い、実子同然に愛情深く接してくれました。
1912年(明治45年)4月、忠助さんから手紙が届きました。
「北海道を開拓し、やっと親子3人で生活できるようになった。タメヨを引き取りたい」
タメヨさんは、わずか7歳にして、1人での北海道行きを決意しました。「自分を捨てた父を憎みつつも、肉親を捨てることはできなかった」とも、「祖母や郷里の友達との別れが辛いところを、祖母に説得された」ともいわれています。
日本国外すら容易に旅行可能な平成期以降とは、事情が違います。祖母に連れられ狸森から徒歩40分で阿武隈川へ。祖母と別れ、そこから渡し舟で対岸に渡り、須賀川駅へ。蒸気機関車を乗り継ぎ、青函連絡船に乗り換え、北海道の函館へ。さらに汽車を乗り継ぎ、
タメヨさんは、自分を捨てた肉親を憎むでもなく、肉親との再会を喜ぶでもなく、北の果てのさらに奥地である蒼瑁村の当時の開拓地の光景に、唖然としました。
「親子3人で生活できる」はずの家、それは家とは名ばかりの、木皮と笹で作った掘っ立て小屋でした。畑は、ほんのわずか。家畜として一応ニワトリを飼ってはいるものの、小屋は無く、放し飼い。近隣に家はまったく無く、ただ林が広がっているだけでした。
明治初め、「夢の大地」と称する北海道へ、開拓にわたる人々は大勢いました。しかし凶作は続き、寒冷地作物の研究も進まず、夢破れた者、死者も大勢いました。そして開拓者の多くは家の次男か三男で、帰る地もありませんでした。
忠助さんもまた三男で、北海道に渡ったが最後、この地が唯一、生きてゆける場所でした。そしてタメヨさんも北海道に渡ったことで、開拓者と運命を共にすることになりました。