執筆記

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「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ③

(②より続く)

 

大正デモクラシーの高まる時代。タメヨさんは勉強好きが高じて、平塚らいてう市川房枝といった女性活動家たちの著書をむさぼり読みました。家に来客が来ても、本を手放さず、ろくに話を聞かない始末でした。

婦人問題に関する雑誌が、次々に発禁処分に遭う時代です。父の忠助さんは、タメヨさんのこうした興味を不安がりました。違う本を読むように言いましたが、タメヨさんは耳を貸しませんでした。

1923年(大正12年)、アメリカの平和運動家であるジェーン・アダムズさんが来日して、東京で講演することになり、タメヨさんはそれを聴きに上京すると言い出しました。忠助さんはさすがに窘めました。

特高に目を付けられるぞ! 女は家を守っていればいいんだ!」

「女が政治に興味を持って、何が悪いの!? 男も女も一緒でしょう? 現に毎日、男も女も一緒に畑で働いているんだもの」

「男が強かったから、日本は戦争に勝てたんだ!」

「女がいるから男が働けるんでしょう? 男たちが戦っているとき、銃後を守ったのは誰? 貧乏の中で子供を育てたのは誰!?」

タメヨさんも忠助さんも、ああ言えばこう言い返し、親子ゲンカはお互い一歩も引かず……と思いきや、タメヨさんからとどめの一撃です。

「いつだって犠牲になるのは、私たち女ばっかり。こんな土地に来たのも男のせい」

タメヨさんに痛いところを突かれ、忠助さんは言い返すことができませんでした。父の過去の行ないにタメヨさんが触れたのは、これが最初で最後です。

結局、当時は北海道の奥地から上京など常識外だった上に、農繁期で多忙という事情もあり、タメヨさんは上京を断念しました。

 

タメヨさんは文学や政治に強い関心を抱くあまり、一時は本気で独身を通して政治家になろうと夢に見ました。しかし、日本で女性が参政権を得るのは、20年以上後のことです。当時のタメヨさんにとって、政治家は文字通り「夢」でした。

 
1908年(明治41年)頃、タメヨさんは左目に白内障を患いました。当時はすでに、白内障は手術で治療可能でしたが、眼科医は遠地にあるのみで、通院は経済的に困難でした。初期の治療が遅れたことで、タメヨさんの左目は生涯、失明に近い状態でした。

 

不幸は続きました。1925年(大正14年)。郷里の福島の狸森(むじなもり)より、祖母シカさんの訃報が届きました。両親のいない孤独な生活でも、実母同然に自分を育ててくれた祖母シカさん。シカさんがいたからこそ、タメヨさんは愛情に包まれて育ったのです。狸森を発って阿武隈川を渡ったときには、シカさんは対岸で、涙を流しながら手を振っていました。あれが今生の別れだったと知り、タメヨさんは声を上げて泣きました。

「生きている内に、もう一度逢いたかった」

 

(④へ続く)