執筆記

ウィキペディア利用者:逃亡者です。基本的にウィキペディア執筆に関しての日記です。そのうち気まぐれで関係ないことも書くかもしれません。

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ④

(③より続く)

 

1925年(大正15年)11月、タメヨさんは22歳のとき、隣村の入植者である垂石(たるいし)家の同い年の男性、貞三郎(ていざぶろう)さんとお見合いしました。

貞三郎さんの家は、貧乏の上に大家族で、貞三郎さんは8人兄弟の4番目です。「貞三郎を分家させる余裕は無い。ちょうど隣村に年頃の娘がいるから、婿養子に」と話が進んだのです。

タメヨさんは、美男子の貞三郎さんに一目惚れしました。おてんば娘のタメヨさんに比べ、貞三郎さんがおとなしい性格であったことも、タメヨさんが彼を気に入った理由の一つでした。

一方で貞三郎さんは婿養子といわれ、この結婚話には気が進みませんでした。家では「断ってほしい」と言ったほどです。しかし、この地方の風習で、見合いの禅に箸をつけることは「承諾」の意味でしたが、貞三郎さんはそれを知らずに箸を付けてしまっていたので、後に引けなくなりました。

翌1926年(大正16年)3月13日、タメヨさんと貞三郎さんは結婚しました。貞三郎さんが婿養子のため、タメヨさんは関根姓から改姓していません。この家の事情が、後に悲劇の一因となります。

 

一方で開墾の方は、大正中期の農業技術の発達、そして婿養子とはいえ貞三郎さんが一家の大黒柱として働くことで、この1926年頃には急速に進んでいました。タメヨさんたち関根家の土地はいつしか、入植当時の倍にまで広がっていました。タメヨさんと貞三郎さんは四男五女、9人の子宝にも恵まれました。長男も産まれ、父の忠助さんは跡取りができたことに大喜びでした。

 

f:id:tobosha111:20181114075618j:plain
1938年(昭和13年)の関根家。
前列のご婦人お2人、子供を抱いた方がタメヨさん。もう1人が母ソメさん。
後列の男性、中央は父の忠助さん、子供を抱いた男性が夫の貞三郎さん。

 

父の忠助さんは、開墾の成功で生活にゆとりができたこと、周囲の勧めなどで、村議会議員に立候補しました。タメヨさんは自身も政治家を夢見ただけに、選挙運動の先頭に立って活躍しました。その甲斐あって、忠助さんは見事にトップ当選を果たしました。この当選は「娘の手柄」と、周囲は陰口を叩いていました。


おめでたい話が続きましたが、第二次世界大戦、太平洋戦争はもう目の前です。

戦争の余波は北海道奥地にまで及び、タメヨさんたち関根家も、否応なしに巻き込まれてゆきます。

 

(⑤へ続く)