(⑦より続く) ※都合により本日も⑧⑨同時掲載、11月19日(月)は休載予定です
タメヨさんの長男の正行さんは成績優秀で、学校では高校進学を勧められていました。しかし父の
次男の建二さんもまた、成績優秀でした。1950年(昭和25年)、建二さんの進学時期が迫りました。タメヨさんは今度こそ進学させたいと考えましたが、正行さんや姉たちが進学できなかった手前や、家計のことから、言い出せずにいました。
正行さんは自分が進学を諦めた一方で、今後の社会人は高校卒業くらいの知識が必要と考え、タメヨさんに弟の建二さんの進学を提案しました。他の子供たちも賛成し、タメヨさんは安堵しました。建二さんはめでたく、高校進学を果たしました。
しかし高校生活は、予想以上の苦労でした。止別の自宅から高校までは、徒歩と汽車で約1時間半もかかります。始業時間は8時20分。高校近くに下宿できれば良いのですが、下宿費など用意できません。
タメヨさんは毎朝5時前に起きて弁当を作り、夜が明けきらない内に建二さんを送り出しました。帰りは夜20時頃になることもあり、タメヨさんは建二さんの顔を見るまでは眠ることができない日々が続きました。
下宿費が用意できなかったように、当時の関根家は未だ貧しく、食事でも主食はほとんど麦飯でした。建二さんの高校に持参する弁当も、もちろん麦飯です。当時の高校生大半の弁当が白米でしたので、建二さんは昼食の時間が最も苦痛でした。
そこでタメヨさんは、息子が恥しくないようにと、祭事や正月用に買い込んでおいた白米を麦飯の上に薄く乗せ、白米に見せかけた「偽装白米弁当」を考案しました。後に五女の信世さん、三男の忠三さん、四男で末っ子の郁雄さんも進学し、郁雄さんの高校卒業まで、この「偽装白米弁当」が続きました。
1952年(昭和27年)2月。タメヨさんの父の忠助さんが、入院中の隣人を見舞った後、急に倒れ、2日後に死去しました。当時の病院では病室で煮炊きが許されており、七輪による一酸化炭素中毒が死因でした。
「孫が9人もいるなら、1人くらい結婚するまでは死ねない」
それが忠助さんの口癖でしたが、孫の結婚の夢が叶う、わずか3か月前のことでした。