執筆記

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「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑪(終)

(⑩より続く)

 

日本の経済発展の一方で、利益を求るばかりに過剰に自然が破壊されてゆくことを危惧しつつ、やがてタメヨさんは晩年を迎えていました。


この頃、同年代の近所のご老人たちは、パークゴルフや、連れ立っての旅行を楽しんでいました。

タメヨさんはそうした趣味を楽しむことも無く、自宅で新聞に隅々まで目を通し、社会の動向に目を配るか、斜里(しゃり)大自然を臨む縁側で、本を読むだけの日々を送っていました。時折目を休めては、斜里岳をじっと見つめました。口癖のように、よくこう言いました。

「生きとし生けるもの、すべてが自壊の道へ進んでいる気がする」

 

最晩年には、小清水町内の特別養護老人ホーム・愛寿苑で過ごした後、2002年(平成14年)10月、小清水日赤病院へ移されました。

死期を悟っていたのでしょうか。家族や親戚たちが見舞いに訪れると、とうに幻滅したはずの郷里への慕情を、しばしば漏らしていました。

狸森(むじなもり)に帰りたい……」

 

入院以来、重篤の報せが届くたび、何度となく家族や親戚たちが駆けつけました。

やがて酸素吸入器を付け、食事を受け付けなくなり…… 幾度となく死線をさまよいました。

 

2003年(平成15年)2月。長年同居した長男の正行さんは、毎日のようにタメヨさんを見舞っていました。病院で夜を明かした2月13日、その疲労を労う看護師さんから「今日はきっと大丈夫ですから」と声をかけられ、夜遅くに帰宅しました。

午前2時頃。タメヨさんの容態が急変との報せを受け、正行さん夫妻は急遽、病院へ駆けつけました。

到着からわずか10数分後のこと…… 正行さんたちを待っていたかのように、タメヨさんは2人に看取られつつ、永遠の眠りにつきました。

 

2003年2月14日、満98歳没。医師の診断は「老衰性自然死」。

 

明治、大正、昭和、平成と、4つの激動の時代を約1世紀にわたって駆け抜け、21世紀に至るまで逞しく生き抜いたタメヨさんの最期は、老衰による安らかなものでした。

「天寿を全うしての大往生だな……」

「おばあちゃん。ずっと働き続けて、疲れたでしょう? ゆっくり休んでね……」

他の子供たちや親戚たちも、後から駆けつけました。タメヨさんの安らかな死に顔を見て、こんな声が漏れました。

「今にでも起きて、畑仕事に行きそうだな」

 

小清水町の瑞雲寺で営まれた通夜と告別式は、町が始まって以来の盛大な葬儀となり、弔問客の数は千人を超えました。

タメヨさんの墓碑は、小清水町郊外の墓地で、夫の貞三郎(ていざぶろう)さん、父の忠助さんと母ソメさんの墓碑に囲まれ、タメヨさんが愛してやまなかった知床(しれとこ)の地を臨んで建てられました。

 

タメヨさんが手塩にかけて育てた子供たちは、9人とも健在。孫の数は16人に昇っていました。孫の1人は、タメヨさんを支え続けた北極星を指して言いました。

「おばあちゃんは、あの星になるんだよね」

 

タメヨさんの命日の2月14日は、バレンタインデーです。孫たちは祖母タメヨさんの柩に、小さなチョコレートを納めました。

日本でバレンタインデーのチョコレートの風習が定着したのは1970年代後半。タメヨさんの青春時代や、夫の貞三郎さんとの死別より、ずっと後のことです。

タメヨさんの三男の忠三さん(筆名 : 関根 圭)はご著書において、タメヨさんの生涯をこう締めくくっています。

 

「母は、あの柩のチョコレートを来世で、顔を赤らめつつ、父に贈ったことだろう」

 

タメヨさんと貞三郎さん、2人の初めてのバレンタインデーとして──

 

(終わり)

 

参考文献)

関根圭『ポラリスを抱いて』、新風舎、2007年5月25日、ISBN 978-4-7974-6158-9。

ほっかいどう百年物語 北海道の歴史を刻んだ人々──。』第8集、STVラジオ編、中西出版、2008年2月16日。ISBN 978-4-89115-171-3。

“関根タメヨさん(ヨミックス社長・関根忠三氏の母) 死去”. 読売新聞 東京夕刊 (読売新聞社): p. 13. (2003年2月14日)

“開拓の歴史、生きた母の姿 関根圭さん著「ポラリスを抱いて」”. 読売新聞 東京朝刊: p. 28. (2007年6月8日)