執筆記

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「人間って、おもしろい」 人物伝 (4) 道北鉄道を陰で支えた「北見のおばば」・菊地トメ (後編)

(前編より続く)

 

1945年(昭和20年)、長かった太平洋戦争が、終戦を迎えました。日本が敗戦という形で…… 日本人誰もが、敗戦国である日本の今後を不安がっていました。静心寮の寮生たちも、例外ではありませんでした。

「おばば。これから日本はどうなるのだろう。鉄道はどうなるのだろう」

「ばかたれ。お前らが鉄道を動かすに決まってるじゃないか」

とはいえ、戦後の食糧難は北見にもおよんでいました。寮生たちは働き盛りの年代というのに、皆が腹を減らす毎日でした。

 

トメさんは農家1件1件を訪ね、食糧難と鉄道の重要さを説きました。そしていくつかの畑を借りることができ、寮生たちと共に畑を耕しました。寮生たちは、勤務明けや休日といった貴重な休息の時間も、トメさんの熱心さを見て、文句一つ言わずに鍬を振るいました。

 

やがてトメさんは、着物を売って金に換えることを思いつきました。トメさんはさほど裕福ではありませんが、元芸者だけあって着物だけは百枚以上もありました。中には郷里の岩内での少女時代にお祭りで来た振袖も。そして、亡き母が遺した形見の着物も…… 様々な思い出が甦りましたが、トメさんはその思い出をふり切り、次々に金に、そして食べ物に替えました。後悔など、一切ありませんでした。

「これで、みんなの腹を膨らませることができるのなら……!」

 

かろうじて食糧を確保できたものの、寮生たちの数は当時約百人、しかも食べ盛りの若者ばかりです。質も悪く、量も少なく、到底、寮生たちに腹に足りるものではありませんでした。毎日毎日、わずかの米に芋や麦の混ざった粥ばかり。しかし、トメさんと固い絆で結ばれた寮生たちは、誰1人として文句を言うことはありませんでした。

 

トメさんは寮母であり、国鉄の職員ではありませんでしたが、鉄道の重要さを説かれたことから、鉄道の運行にも気を配っていました。ストライキが起きそうになると国鉄へ飛んで行き、管理部長や労働組合の代表者と「汽車を止めるなんてとんでもない。止めないでほしい」と懇願しました。戦後の苦難の時代、日本最北の管理部管内の汽車が止ることは一度もありませんでしたが、その陰にはトメさんのこうした尽力があったのです。

 

 

1948年(昭和23年)のこと。トメさんがまた食料調達のためにタンスから着物を出していると、寮生の1人が声をかけました。

「もう、だいぶ減りましたね」

「1,2枚は残しときたいな」

「何かに使うんですか?」

「再婚だ。初婚に失敗したからな」

この頃トメさんは、皆を養うために無理を重ね、体調がすぐれませんでしたが、こんな冗談を言うくらいだから快方に向かっているのだろう── その寮生はそう思いました。

 

しかし、トメさんは、この年の夏頃から体を病み、冬には寝込むことが多くなりました。

「おばば、元気を出してくれよ」

「私は大丈夫だ。私が死んだら、誰がお前らを養うんだ?」

 

年が明け、1949年(昭和24年)2月12日。寮生たちは毎日のように、交代で1日中、トメさんに付き添っていました。

「私が死んだらな……」

「縁起でもないこと言わないでくださいよ」

「まぁ、聞け。私の棺桶は霊柩車に乗せず、皆で担いで運んでくれ。霊柩車で速く走って行ったんじゃ、周りの景色もゆっくり見れないからな」

 

翌朝、トメさんは便所に立ちました。しばらくして、便所の前で飼い犬が一際激しく吠えました。寮生たちが異変を感じて駆けつけると、トメさんは倒れており、そのまま目を開けることはありませんでした。

 

1949年(昭和24年)2月13日、満52歳没…… 昨日のあの言葉が、寮生たちへの遺言となったのです。

 

寮生たちはトメさんに、死装束を着せてやろうと、タンスを開けました。何も着物がありません。1段目、2段目、3段目…… どの引出も空っぽでした。

「まさか、泥棒にでも遭ったのか?」

最後の引出を開けると、たった1着だけ着物がありました。それは白無垢の死装束でした。

トメさんは死期を悟り、死装束だけを遺し、他の着物はすべて、寮生たちの食料に替えてしまっていたのです。それを知った寮生たちは、皆が泣き崩れました。

 

葬儀の日。寮生たちはトメさんの遺言通り、柩を皆で担ぎ、涙を堪えつつ、大雪の中を歩きました。野辺送りの寮生たちの数は百人を超えました。

「泣くな…… 泣いたりしたら、おばばに怒られるぞ」

寮生たちはトメさんに代って力強く生き、トメさんの分も働き、北見の鉄道を護り、鉄道を栄えさせる決意を固めました。

 

 

それから17年後。寮生の1人が、トメさんの記念碑を建てることを発案しました。皆が一同に賛成しました。すでに全国に散らばっていた鉄道関係者、トメさんゆかりの人々、世話になった人々、基金者は500人以上に昇りました。そして1967年(昭和42年)、寮に近い北見駅の裏に「北見のおばば」の碑が建立されました。

 

建立以来、慰霊祭が毎年開催されましたが、元寮生の高齢化に伴い、1998年(平成10年)の開催が最後になりました。

「厳しい半面、献身的な寮母さんだったな」

「今後もおばばへの感謝の気持ちは変わらない」

「本当に尽くしてくれた。これほどの女傑はもう生まれないだろう」

「いつまでも慕われる北見の『母』だ」

元寮生たち口々にそう語り、トメさんを偲びました。

 

「北見のおばば」の碑には、在りし日のトメさんのことが、こう刻まれています。

 

「夏の日炎熱の畑で寮生と一緒に馬鈴薯の草除りをやったおばば、吹雪の夜乗務から帰って来ると、いつも熱いいも粥を腹いっぱい食わせてくれたおばば、祝いの日にはいつもどぶろくを作って飲ませてくれたおばば、いたずらが過ぎると雷のような声で怒鳴りつけるけれど、困った時はいつも優しく助けの手を貸してくれたおばば。時は流れたが、静心寮の夕方の食堂のざわめきと、“おばば”の胴間声が今も聞こえてくるようだ。おばばの汗と温情で育った我々は、皆元気で今も北海道の鉄道を守っています。おばばよ、常呂川のほとり、北見の碧空の下で安らかに眠れ、そして国鉄と寮生を護られよ」

 

 

参考文献)

松田鉄也 『北見のおばば』 時事通信社、1982年1月5日。NCID BN07122839

『ほっかいどう百年物語 北海道の歴史を刻んだ人々──。』 STVラジオ編、2002年2月20日。ISBN 978-4-89115-107-2。

“旧国鉄寮の寮母・菊地さん 2日、最後の慰霊祭”. 北海道新聞 全道朝刊 (北海道新聞社): p. 29. (1998年6月28日)

“「おばば」への感謝 永遠に… 旧国鉄寮の寮母 故菊地さん 最後の慰霊祭”. 北海道新聞 北市朝刊: p. 20. (1998年7月3日)

“石碑の証言 北の歴史を訪ねて「北見のおばば」慰霊碑(北見市仲町1) 国鉄寮生支えた“母””. 北海道新聞 旭A朝刊: p. 18. (1998年8月11日)