執筆記

ウィキペディア利用者:逃亡者です。基本的にウィキペディア執筆に関しての日記です。そのうち気まぐれで関係ないことも書くかもしれません。

最近の動向…… 良質な記事選定、そして書籍デビュー!?

4月に新年度を迎え、新元号も決定したので、何となくブログのデザインも変えてみました。しかし、未だにしっくりきませんので、気まぐれでまた変えるかもしれません。自分好みのデザインを自分でカスタマイズするなどという器用なことができず、既存のテンプレートを選ぶのみです。前の職場では社内ウェブサイトの作成を担当していたはずなんだけどなぁ……?

 

さて、門外漢のキリスト教アメリカ人ということで意外に苦戦したピアソン夫妻、めでたく良質な記事に選定していただきました。良質な記事の選考においてM氏より加筆のご助言をいただいております…… その加筆より新規記事執筆を先にしてしまって、Mさん、申し訳ありませんです。写真撮影で遠出したいので、それを兼ねて来週にはなんとか図書館へ……と目指しております。

 

話は変わって、(過去にも少しだけ触れましたが)、元号が変わるにあたって共同通信で『私たちの平成』という連載企画がありました。簡単にいえば「平成時代にはこんな人たちがいた」と紹介する記事でして、昨年3月の記事に執筆者仲間N氏と僕の取材内容が掲載されてしまいました。昨年1月、仕事中に職場のパソコンに取材申込みがメールで届いたのですが、「なぜ!? Nさんは掲載当然として、僕よりもっと凄い執筆者さんが大勢いるのに、なぜ僕!?」と思い、デスクからひっくり返りそうになったものです。

記事が掲載されたのは東北の東奥新聞、九州の佐賀新聞など地方紙のみで、全国紙には結局載らず仕舞でしたが…… このたび連載の書籍化が決定し、結局は全国デビューすることになってしまいました。この報せも取材時の記者さんから職場パソコン宛てにメールで届き、またもやデスクからひっくり返りそうになり、隣の社員から思い切り不審な目で見られました(職場では僕のウィキペディア活動はあまり知られていません)。

www.iwanami.co.jp

この紹介文を読んで「あぁ、そういうコンセプトの連載だったんだなぁ」と改めて認識しています。30年後、50年後…… 新元号の令和(一発変換できるようにしとかんといかんな)時代がそこまで続くかわかりませんが、その未来の時代の人々がこの本を読んで「平成時代にはウィキペディアにこんな人がいたんだなぁ」と思える対象が僕で良いのか、未だ疑問に思う次第です。

 

ちなみによく「取材料はもらったのか」「印税は入るのか」と聞かれます。取材時は記者さんと一緒にご飯を食べながらの取材で、すべて奢ってもらい(経費で落ちるそう)、あの食事の代金が取材料でしょう。そして書籍化の後は印税で1冊献本してくださるそうですので、別に僕のもとに印税が入るわけではありません。要は、一銭も入らないのです……(^^;

じゃない方芸人

昨晩に書き上げた記事です。

じゃない方芸人 - Wikipedia

 

「お笑いが好き」っていうと、なぜか「意外」といわれるのですが…… 暇なときには結構Youtubeお笑い番組を見ています。

(なぜYoutubeか? 夜は早くに寝てしまい、テレビのゴールデン時間帯の番組をほとんど見ないから。且つ、ビデオを故障したまま放置していて録画もできないのです)

ここ数か月になって、なぜか『水曜日のダウンタウン』を見始めました。きっかけは確か、何かの検索で「24時間自転車生活」でヒットしたから、だったでしょうか? そしてこの番組を知り、いわゆる「じゃない方芸人」という言い回しを知りました。さらにお笑いコンビなどで既存の記事で、「誰々は相方の強い個性の陰に隠れ、いわゆる『じゃない方芸人』と呼ばれる」といった記述を多く見かけ、「『じゃない方芸人』が何たるかを、記事として解説べきでは?」と思い、書き上げた次第です。

 

残念なのは「じゃない方芸人」という言い回しは、テレビ以外にも現在は新聞や雑誌で使われていますが、いつ、何をもってこの言葉が定着したかが不明なことですね。たぶん『アメトーーク!』で企画の名前に使われたからだと思うのですが、そうだとする出典は見つからず仕舞いです。

 

記事中に出典に示したメルマガで、かつて綿矢りさ氏と金原ひとみ氏が芥川賞をダブル受賞した当時、当時の2004年にすでに「綿矢りさじゃない方」という言葉があったそうですれけど、思えばそれよりずっと前の1980年代、おニャン子クラブ の人気全盛時、「うしろゆびさされ組高井麻巳子じゃない方」って聞いたおぼえがあるなぁ……

 

外食戦隊ニクレンジャー

……という記事を、息抜きに書かせていただきました。
所要日数、たったの約2日です。

外食戦隊ニクレンジャー - Wikipedia

去年の秋でしたか、早朝に松屋で眠い目を擦りつつ納豆ごはんを食べていたら、やけに暑苦しいBGMが流れてきて「何だこりゃ!? 静かに食べたいんだけどなぁ……」。そして先月、久しぶりに松屋に入ったら同じBGMがかかり「これってそんなに流行しているのか!?」と思い、調べてみて「ニクレンジャー」なるテーマソングだと知り、書き上げた次第です。

画像のガスト、KFC、モスバーガー松屋は24日(日)が幸い快晴でしたので、図書館の本の返却ついでに川崎市内を歩き回って撮影しました。今頃気づきましたがガストの投稿はCafeレストラン・ガストのアカウントでしたので、SガストでなくCafeレストラン・ガストの画像が相応しかったですね。そのうち訂正したいです。

(2019.4.7付記 : ウィキペディア上の画像は訂正済みです。訂正前は下記のSガストの画像でした)

 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/archive/6/61/20190329224435%21Gusto%2C_KFC%2C_MOS_Burger%2C_Matsuya_in_Kawasaki.jpg

記事にも書きましたが、ブーム当時、コミックマーケットにはニクレンジャーのコスプレの人がいたり、ネットで調べるとハロウィンにもそのコスプレの人がいたらしいです。撮影して画像を載せたかったものです。さすが流行に疎い自分、いささかブームの時期を逃してしまったなぁ……

「人間って、おもしろい」 人物伝 (4) 道北鉄道を陰で支えた「北見のおばば」・菊地トメ (後編)

(前編より続く)

 

1945年(昭和20年)、長かった太平洋戦争が、終戦を迎えました。日本が敗戦という形で…… 日本人誰もが、敗戦国である日本の今後を不安がっていました。静心寮の寮生たちも、例外ではありませんでした。

「おばば。これから日本はどうなるのだろう。鉄道はどうなるのだろう」

「ばかたれ。お前らが鉄道を動かすに決まってるじゃないか」

とはいえ、戦後の食糧難は北見にもおよんでいました。寮生たちは働き盛りの年代というのに、皆が腹を減らす毎日でした。

 

トメさんは農家1件1件を訪ね、食糧難と鉄道の重要さを説きました。そしていくつかの畑を借りることができ、寮生たちと共に畑を耕しました。寮生たちは、勤務明けや休日といった貴重な休息の時間も、トメさんの熱心さを見て、文句一つ言わずに鍬を振るいました。

 

やがてトメさんは、着物を売って金に換えることを思いつきました。トメさんはさほど裕福ではありませんが、元芸者だけあって着物だけは百枚以上もありました。中には郷里の岩内での少女時代にお祭りで来た振袖も。そして、亡き母が遺した形見の着物も…… 様々な思い出が甦りましたが、トメさんはその思い出をふり切り、次々に金に、そして食べ物に替えました。後悔など、一切ありませんでした。

「これで、みんなの腹を膨らませることができるのなら……!」

 

かろうじて食糧を確保できたものの、寮生たちの数は当時約百人、しかも食べ盛りの若者ばかりです。質も悪く、量も少なく、到底、寮生たちに腹に足りるものではありませんでした。毎日毎日、わずかの米に芋や麦の混ざった粥ばかり。しかし、トメさんと固い絆で結ばれた寮生たちは、誰1人として文句を言うことはありませんでした。

 

トメさんは寮母であり、国鉄の職員ではありませんでしたが、鉄道の重要さを説かれたことから、鉄道の運行にも気を配っていました。ストライキが起きそうになると国鉄へ飛んで行き、管理部長や労働組合の代表者と「汽車を止めるなんてとんでもない。止めないでほしい」と懇願しました。戦後の苦難の時代、日本最北の管理部管内の汽車が止ることは一度もありませんでしたが、その陰にはトメさんのこうした尽力があったのです。

 

 

1948年(昭和23年)のこと。トメさんがまた食料調達のためにタンスから着物を出していると、寮生の1人が声をかけました。

「もう、だいぶ減りましたね」

「1,2枚は残しときたいな」

「何かに使うんですか?」

「再婚だ。初婚に失敗したからな」

この頃トメさんは、皆を養うために無理を重ね、体調がすぐれませんでしたが、こんな冗談を言うくらいだから快方に向かっているのだろう── その寮生はそう思いました。

 

しかし、トメさんは、この年の夏頃から体を病み、冬には寝込むことが多くなりました。

「おばば、元気を出してくれよ」

「私は大丈夫だ。私が死んだら、誰がお前らを養うんだ?」

 

年が明け、1949年(昭和24年)2月12日。寮生たちは毎日のように、交代で1日中、トメさんに付き添っていました。

「私が死んだらな……」

「縁起でもないこと言わないでくださいよ」

「まぁ、聞け。私の棺桶は霊柩車に乗せず、皆で担いで運んでくれ。霊柩車で速く走って行ったんじゃ、周りの景色もゆっくり見れないからな」

 

翌朝、トメさんは便所に立ちました。しばらくして、便所の前で飼い犬が一際激しく吠えました。寮生たちが異変を感じて駆けつけると、トメさんは倒れており、そのまま目を開けることはありませんでした。

 

1949年(昭和24年)2月13日、満52歳没…… 昨日のあの言葉が、寮生たちへの遺言となったのです。

 

寮生たちはトメさんに、死装束を着せてやろうと、タンスを開けました。何も着物がありません。1段目、2段目、3段目…… どの引出も空っぽでした。

「まさか、泥棒にでも遭ったのか?」

最後の引出を開けると、たった1着だけ着物がありました。それは白無垢の死装束でした。

トメさんは死期を悟り、死装束だけを遺し、他の着物はすべて、寮生たちの食料に替えてしまっていたのです。それを知った寮生たちは、皆が泣き崩れました。

 

葬儀の日。寮生たちはトメさんの遺言通り、柩を皆で担ぎ、涙を堪えつつ、大雪の中を歩きました。野辺送りの寮生たちの数は百人を超えました。

「泣くな…… 泣いたりしたら、おばばに怒られるぞ」

寮生たちはトメさんに代って力強く生き、トメさんの分も働き、北見の鉄道を護り、鉄道を栄えさせる決意を固めました。

 

 

それから17年後。寮生の1人が、トメさんの記念碑を建てることを発案しました。皆が一同に賛成しました。すでに全国に散らばっていた鉄道関係者、トメさんゆかりの人々、世話になった人々、基金者は500人以上に昇りました。そして1967年(昭和42年)、寮に近い北見駅の裏に「北見のおばば」の碑が建立されました。

 

建立以来、慰霊祭が毎年開催されましたが、元寮生の高齢化に伴い、1998年(平成10年)の開催が最後になりました。

「厳しい半面、献身的な寮母さんだったな」

「今後もおばばへの感謝の気持ちは変わらない」

「本当に尽くしてくれた。これほどの女傑はもう生まれないだろう」

「いつまでも慕われる北見の『母』だ」

元寮生たち口々にそう語り、トメさんを偲びました。

 

「北見のおばば」の碑には、在りし日のトメさんのことが、こう刻まれています。

 

「夏の日炎熱の畑で寮生と一緒に馬鈴薯の草除りをやったおばば、吹雪の夜乗務から帰って来ると、いつも熱いいも粥を腹いっぱい食わせてくれたおばば、祝いの日にはいつもどぶろくを作って飲ませてくれたおばば、いたずらが過ぎると雷のような声で怒鳴りつけるけれど、困った時はいつも優しく助けの手を貸してくれたおばば。時は流れたが、静心寮の夕方の食堂のざわめきと、“おばば”の胴間声が今も聞こえてくるようだ。おばばの汗と温情で育った我々は、皆元気で今も北海道の鉄道を守っています。おばばよ、常呂川のほとり、北見の碧空の下で安らかに眠れ、そして国鉄と寮生を護られよ」

 

 

参考文献)

松田鉄也 『北見のおばば』 時事通信社、1982年1月5日。NCID BN07122839

『ほっかいどう百年物語 北海道の歴史を刻んだ人々──。』 STVラジオ編、2002年2月20日。ISBN 978-4-89115-107-2。

“旧国鉄寮の寮母・菊地さん 2日、最後の慰霊祭”. 北海道新聞 全道朝刊 (北海道新聞社): p. 29. (1998年6月28日)

“「おばば」への感謝 永遠に… 旧国鉄寮の寮母 故菊地さん 最後の慰霊祭”. 北海道新聞 北市朝刊: p. 20. (1998年7月3日)

“石碑の証言 北の歴史を訪ねて「北見のおばば」慰霊碑(北見市仲町1) 国鉄寮生支えた“母””. 北海道新聞 旭A朝刊: p. 18. (1998年8月11日)

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (4) 道北鉄道を陰で支えた「北見のおばば」・菊地トメ (前編)

北海道北見市、JR北見駅。ここには「北見のおばば」と題された記念碑があります。

北見市観光テキスト

この「北見のおばば」なる人物は、鉄道員でもなければ、鉄道を造った人物でもありません。
この女性こそが、鉄道を動かす男たちの世話をし続けた、たった1人の女性── 旧国鉄時代に道北の交通の要といわれた北見の鉄道を、20年以上にわたって人知れず支え続けた、陰の功労者です。

 

菊地 トメさん。

 

1896年(明治29年)、呉服店の五女として生まれました。この家の子はトメさんを含めて5人とも女子でしたが、トメさんはニシン景気に沸く地元の漁師たちに囲まれ、男勝りの性格に育ちました。

 

16歳になった夏の日、地元の神社のお祭りで、草相撲がありました。その決勝戦、土俵で男2人が組み合い、片方が相手の股間を蹴り上げ、勝ちを収めました。トメさんは「そんな卑怯な手まで使って勝ちたいのか!? なら、私が相手だ!」と、何と自ら土俵に登りました。幸いにも制止に入った者がいたので、男相手に相撲をとることはありませんでしたが、トメさんの性格を表すエピソードです。

 

しかし父の源蔵さんが、助右衛門という男に騙されて投資に失敗し、家は破産してしまいました。幸いにも長女と次女はすでに嫁いだ後で、どうにか昔の伝手を辿って三女を嫁がせた後、母・おこうさんは心労で寝込んでしまいました。源蔵さんは借金を抱え、どうにもならず呆けた日々を送っていました。

 

トメさんは家計を助けるため、姉(四女)のタヨさんと共に、芸者の道へ入りました。1年の修行を終え、2人は座敷に立ち、芸者の日々を送りました。やがて、酒や芝居などを憶えていきました。

 

あるとき芝居を見た帰り、トメさんは道端で、思わぬ男性と再会しました。かつて祭りの相撲で、股間を蹴られたあの男です。名は村社 大五郎さんと言いました。この再会を機に、トメさんは次第に大五郎さんに惹かれました。

 

 

トメさんが25歳のときのこと。実家では、母おこうさんは幾分か回復したものの、父の源蔵さんは腎臓を病み、それ以上に心を病んでいました。そこへ、かつて彼を騙したあの助右衛門が訪れ、「トメをくれれば商売の助けに支度金を出す」と言い出しました。それを知ったトメさんは、大五郎さんのことも心にあったものの、家を助けたい一心で、素直に従いました。

 

数日後、助右衛門がトメさんを迎えに来ました。そこへ1人の男が現れ、札束を叩きつけ「金は返した! とっとと失せろ!」。続いて大五郎さんも現れ、トメさんはわけもわからず2人に連れられて逃げ出しました。

 

トメさんを救った男の名は欣之さん。実は大五郎さんにあのとき相撲で勝った男でした。2人は、あの相撲がきっかけで無二の親友となり、トメさんの危機を知って駆け付けたのでした。もはやトメさんは岩内には居られません。欣之さんの手引きでトメさんは大五郎さんと共に、岩内を発ちました。

 

 

トメさんたちは夫妻となって北海道内を旅した末、オホーツク海に面する道北の湧別町に落ち着き、リンゴ農園を始めました。この湧別で、旧国鉄職員の遠藤赳男さんと知り合い、4年後には遠藤さんの依頼で、国鉄の独身寮の賄いも始めました。

 

1923年(大正12年)。トメさんは、「父 危篤」との報せを受け、岩内に飛んで帰りました。源蔵さんは「迷惑をかけたな。勘弁してくれ」と言い遺し、逝きました。

翌年には母おこうさんも、「借金の形にもしないで遺しておいたこの着物がこれだけある。皆で分けておくれ」と言い遺し、逝きました。

 

トメさんが岩内を去って約10年経った頃。トメさんを鉄道の寮に手引きした遠藤さんが訪ねてきました。当時の遠藤さんは野付牛(北見)に勤めており、北見の国鉄の独身寮に勤めて欲しいとの依頼でした。北見の鉄道は重要な交通であり、寮には80名もの青年が寮生として住んでいましたが、寮母の評判が悪く、寮生との仲がうまくいっていないというのです。
トメさんは、ようやく住み慣れた湧別を離れることに最初は抵抗しましたが、遠藤さんに懇願され、北見行きを決意しました。

 

北見の独身寮「静心寮」。そこでは、不良じみた寮生たちが待っていました。

「長旅でお疲れでしょう。まぁ、一杯」

彼らは新米の寮母を完全に甘く見てかかり、酔い潰そうと酒を勧めました。トメさんは芸者上がり、彼女から見ればこんな若者の企みはお見通しです。昔取った杵柄で、その酒を一気に飲み干すや、顔色一つ変えず、立て続けに5杯を飲み干しました。寮生たちは完全に圧倒され、たちまち見る目が変わりました。

「今度の寮母はただ者じゃないな……」

 

1932年(昭和7年)。石北トンネルが開通し、鉄道業はいよいよ活発になりました。寮ではトメさんたちに寮生たちがすっかり懐き、トメさんも仕事にも張りが出ていました。ところが大五郎さんの方はもともと寮の仕事には消極的であり、やがて寮以外の仕事に手を出し始めました。

 

「私は寮の仕事を続けたいんです。本当にその仕事を始めたいんですか? だったら、別のところでやってください。この際ですから、思い切って別れましょう」

トメさんは大五郎さんにそう言い、なんと短刀を手にしました。

「……わかった。別れよう」

 

こうしてトメさんは、離婚して菊地姓に戻りました。大五郎さんは樺太へと渡り、トメさんは寮に人生を捧げる決心をしました。

「おばさん。おじさんがいないけど、どこかへ行ったのか?」

「亭主とはもう別れた。私はもう、1人のトメだ。これからは『おばさん』じゃなく、『ばばあ』とでも呼んでくれ」

このとき、トメさんはまだ36歳。さすがに「ばばあ」とは呼べず、いつしか「おばば」の呼び名が定着しました。ちなみに当時の北海道では、「おばば」はごく一般的な呼び名でした。

 

 

(後編へ続く)

 

近況まとめて報告

はてなブログは1か月間放置すると「そろそろ書いてみませんか?」とメールが来るようですね。では、近況をざっと書いてみたいと思います。

 

体調は落ち着き、血圧も正常値になっています。担当の内科の先生いわく、体質的に寒さが良くなかったのだろう……とのことでした。しかし引き続き現在は花粉症に悩まされており、薬とマスクで何とか凌いでいます。

(ですので最近お逢いした皆さん、僕がマスクをしているのは、風邪ではありません)

 

さて1月20日のイベント「『棚から一掴み』してみたら」に合せて全力で加筆した記事「地球の秘密」はめでたく良質な記事に選定していただきました。天国の坪田愛華ちゃんも喜んでいるでしょうか。

後にこの作品にちなんだ施設、斐川環境学習センターを、クリスマスブーツ執筆時に引き続き、S氏に写真をご提供していただきました。

File:Hikawa Kankyo Gakushu Center 20190316.jpg - Wikimedia Commons

まだ何のご恩返しもできていないというのに二度も無理なお願いを快諾していただき、氏にはお礼の言葉もありません。思えば、いつの間にかこうして僕の執筆は、温かな皆様に支えられているのですね。

 

しかしながらこの記事、『地球の秘密』は海外でも高く評価されたのでしたら、海外の文献やニュースを調べれば、海外での評価について相当加筆できると思うのですが、如何せん僕は高校で英語が赤点だったほど外国語はさっぱりですので、その点は悔いが残ります。「Tsubota aika Secret of the earth」でざっくり検索しただけでも相当ヒットするのですが……。

 

さて、2019年度の新規記事第1弾がこちらでした。

ピアソン夫妻 - Wikipedia

アメリカ出身のキリスト教宣教師のご夫妻です。明治後期に来日されて北海道で活動、聖書の編纂、廃娼運動などで活躍されました。

元はといえばTwitter

 と呟いた後、まぼろし博覧会取材中に執筆者仲間N氏たちに「ピアソン夫妻は書きたいんですよね~」と言ってしまい、後には引けなくなったというのが実情です。

こちらも外国語がさっぱりなのが災いした上、キリスト教もさっぱりですので意外に苦戦しました。しかし各種文献をあたればピアソン夫妻最大の功績といえば「廃娼運動」らしいので、キリスト教の布教からは敢えて一歩退き、廃娼運動に重点を置くことで、どうにか仕上げました。

意外にも月間新記事賞を頂いてしまい、現在、良質な記事の選考中です。選考期間は24日までですが、現在は賛成1票。今回は外すでしょうか?
実際のところ月間記事賞をいただきながら良質な記事にならなかった記事は1つや2つではありません。同じく海外ネタではボストン絞殺魔事件などもそうですね。

 

さて3月3日は神奈川県立図書館主宰「ひなまつりWikipedia 女性×かながわ」に参加してまいりました。

www.klnet.pref.kanagawa.jp

神奈川県ゆかりの施設や人物について執筆してみようとのイベントです。僕のホームグラウンドといえる県立図書館ですので、迷わず参加しました。

参加人数は約20人、それを5チームに分け、5つの新規記事の執筆に挑みました。僕の参加チームの担当記事がこちらです。

九重年支子 - Wikipedia

僕のチームは4人で、他のお3方はウィキペディアは「ほぼ初めて」「まったく初めて」でしたので、僕はファシリテーターに専念しました。確かファシリテーター1人はこれが初めてだったでしょうか…… 正直、荷が重いですね。

このイベントで執筆された記事5件のうち3件が、九重氏、川喜多かしこ氏、佐藤美子氏と人物記事ですが、九重氏以外のお2方はイベント時の記事完成時点で顔写真があり(実はイベント開催以前からすでにコモンズに有った)、九重氏のみ無かったことが非常に悔しく思いましたので、後日、国会図書館のデジタル資料から根性で入手しました。

File:Kokonoe Toshiko.jpg - Wikimedia Commons

 

そして先週書き上げたばかり、今年の新規記事第2弾はこちらです。

船山春子 - Wikipedia

小説家の船山馨氏の奥様です。

愛読書『ほっかいどう百年物語』で船山馨氏の生涯を読んだところ、奥様の春子氏に強く惹かれ、そちらを新規で興しました。

船山馨氏が執筆苦からヒロポン中毒に陥り、春子氏はその苦労を夫妻で分け合おうと、自らもヒロポンを常用し、共に中毒に陥ったという凄い夫妻です。僕は人物記事を書くとき、その人物が自分に憑依しているような気がするのですが、中毒の辺りの描写は精神的にキツかったです。

ヒロポンから脱した後も、馨氏は「元ヒロポン中毒」と汚名がつきまとって低迷期が続きますが、春子氏は夫を懸命に支えます。

そしてついに、馨氏が『石狩平野』で大成功。河出書房の社員が船山家に赴き、単行本化を報告します。

馨氏は興奮し「母さん、寿司だ! ビールだ! 何人前でもいいから、とにかく出前だ!」

春子氏は腰を抜かして「私、立てません……」

長らくの苦心から脱して大成功を手にしたときのこの描写の爽快感!

朝ドラ『ゲゲゲの女房』で、水木しげる先生が漫画賞を受賞したときの、奥様の布美枝さん(演:松下奈緒)のセリフが胸に甦りました。

「必ずこういう日が来ると思ってましたけん」

「お父ちゃんはそれだけの努力をしてきたんですけん」

「やっと……来るべき時が来たんですよ!」

このくだりを書き終えた後、昼飯を買いに出ようと自宅ドアを開けたときは一際、空が青く感じました。

 

ちなみに記事中に船山家の墓碑の写真がありますが、これは3月15日に通院で休暇を頂いた際、ついでに東京都中野区まで赴き、自ら撮影しました。

この日は朝一番から鶴見区の病院で高血圧診察→川崎の図書館で調査→川崎の病院で睡眠外来診察→東京都中野区の寺→神奈川県立図書館で調査→横浜市立図書館で調査→薬局で薬を受け取る、という強行軍で、この間の食事は途中のコンビニで買ったゼリー飲料「朝バナナ」のみでした。

 

強化記事1本、新規記事2本、重めの記事が立て続けでしたので、次はそろそろ、軽めのサブカル関連でも書きましょうかね?

 

お休み中です

こんな拙いブログを楽しみになさっている奇特な皆様がもしいらっしゃいましたら、長いこと更新せず申し訳ありません。


1月終わり頃より体調を崩しております。

2月半ばに一度は良くなったと思ったのですが、そこで無理をしたのが祟ったか、再度悪化しております。

元々高血圧ですが、血圧の数値も、高い数値を見慣れた僕の目で見ても「これはまずい」という数値になっております。

ウィキペディアの執筆も今年書こうと思っていたものを、1月よりガンガン書き始めたかったのですが、まったく進んでおりません。

本業の方はさすがに休めず、薬で騙し騙し出勤しておりますが、それ以外に手を休めることのできるものは休もうと思い、ブログには手をつけていない次第です。

どうか気長に見守っていただけますと幸いです。