執筆記

ウィキペディア利用者:逃亡者です。基本的にウィキペディア執筆に関しての日記です。そのうち気まぐれで関係ないことも書くかもしれません。

静岡、熱海・伊東、取材紀行

昨日の12月8日は、かねてより温めていた、静岡のウィキペディア題材の取材の日でした。

 

3時台に起床。シャワーの後、京急線東海道線を乗り継いで人生初・静岡県を目指し、8時近くに熱海駅に到着。

「朝バナナ」のみでとっとと朝食を済ませ、駅前の足湯に呑気に浸かっていたところ、メッセンジャーで連絡が入ったので、レンタカー店の前へ移動し、執筆者仲間のN氏ご夫妻、S女史と合流。

N氏の奥様の運転で移動し、S女史お勧めの関東大震災の慰霊碑、釈迦堂などを回りました。僕が温めているウィキペディアのネタのいくつかも、関東大震災を経緯として現在へ至るものがいくつかあり、興味深いです。

 

関東大震災の痕跡の一つ、根府川駅についてはウィキペディアにも、震災について記述があります。

根府川駅 - Wikipedia

 

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(根府川駅関東大震災慰霊碑)

こちら根府川駅の駅員さんが、慰霊碑などの所在を事細かく教えてくださり、とにもかくにも超──いい人です。手書きのコピーらしき地図を何枚もご用意くださるという、ご用意周到さです。この駅員さんなくして、今回の取材は成功し得なかったでしょう。根府川駅をご利用の方々、秋にはこの駅員さんが駅前でいつも、落ち葉をほうきで掃いていると思いますので、ぜひ一度ご注目ください。

 

ここまで調子に乗って写真を撮りまくったら、デジカメのメモリが一杯になったので、午後の取材に備えて全部消しました……画像はFacebook投稿のスマホ撮り使い回し1枚のみで、申し訳ありません。

 

お昼はN氏お勧めの回転寿司へ。郷里の小樽以外の回転寿司は久しぶりですが、いつもグルメにこだわるN氏だけあり、安く美味しく、十分堪能しました。「トウジン」なる深海魚もありました。ウィキペディアによると正しくは「ゲホウ」というそうです。

ゲホウ - Wikipedia

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現在、画像提供依頼が行なわれていますが、寿司の画像なら投稿できます──が、生きている状態の画像の無い状態で、調理後の画像だけ貼るのってどうなのでしょう。なんだかピーターラビットのお父さんみたい……

全文表示 | 本当は恐い?ピーターラビットに仰天 父親はパイに、甥たちも「皮をはいで頭を…」 : J-CASTニュース

 

午後は僕のわがままで、半年近くずっと憧れていた、知る人ぞ知る伊東のB級スポット中のB級スポット「まぼろし博覧会」に、ついにやって来ました。もう、この日を夢見て多忙な仕事を乗り越えたといっても過言ではないでしょう。

館長のセーラちゃん(データハウス社長・鵜野義嗣氏)、ツイッターによるとお風邪で体調の悪い中、気さくに出迎えてくださり、記念撮影にも応じてくださり、大感謝です。

まぼろし博覧会」とは……各メディアやニュースサイトでも報じられていますので、今さら説明するのは野暮でしょうか。お金を払って入館する前からすでにこの光景ですので、館内の様子は推して知るべし、です。

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(まぼろし博覧会、受付前)

セーラちゃんはお風邪ですのに、僕たちの帰りのときも気さくに話しかけてくださり、車を出すときには盛大に旗を振って見送ってくださいました……もう、何度頭を下げても足らないくらいです。このご恩は忘れません。ウィキペディアにて「まぼろし博覧会」の記事、全身全霊を尽くして書きましょう。

 

その後は同じくデータハウスの営む「ねこの博物館」「怪しい少年少女博物館」を回りました。伊東のディープな面をたっぷり堪能、もう、おなかいっぱいです。サブカル好きな人間にはたまらない1日です。あまりの濃さに、時計を見て「えっ、まだこんな時間!?」と思うほどでした。

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(怪しい少年少女博物館)

 

その後、夜は和食屋で天丼や焼魚定食を楽しみ、東海道線にて再会を約束しつつ、帰途に就きました。

 

ご同行のN氏ご夫妻、S女史、この場を借りまして、僕のヘンな趣味に付き合わせてしまい、心の底から申し訳無いです……でも僕は大満足です。いえ、嘘です。1日では足りないのでまた行くと思います。「まぼろし博覧会」は季節ごとにイベントがあり、正月にはヘンな汁粉、夏にはヘンなかき氷を出すのらしいで、その時がねらい目でしょうか。でも正月は帰省で行けないし、夏は館内がかなり蒸し暑いそうなのですので、悩みどころです。

 

今回お付き合いいただいた皆への恩返しのため、帰省時には皆の投稿した記事のために「中城ふみ子」や「ぶん公」など、小樽の写真は必ず撮らねば!と、使命感を抱いて年末の帰省に臨みます。

 

なお今回のタイトルは、漢字変換の1発目で「取材奇行」になりましたが、ある意味「奇行」かもしれません。

 

過去記事のこと「山本幡男」など

執筆者仲間の某氏のブログを読みつつ、やはり記事を書くのに何年もかかることがあるのだなぁ……と感じております。僕が数年をかけた記事といえば、シベリア抑留経験者の「山本幡男」氏が思い浮かびます。この方は最初に本を読んだとき「これ、書きたい…… でもこんな凄い人、僕に書けるか!?」と思い、少し書いてみて挫折。しばらくして挑戦して、また挫折…… を繰り返し、結局書き上げたのは2年後でした。

山本幡男 - Wikipedia

この方は遺書の内容に非常に心を打たれて「日本男児たるもの是非これを読むべし」と思い書き上げました。氏の息子さんのウェブサイト(恐れ多いことに僕の記事へリンクして頂いてます……)に遺書の全文が公開されています。特に「子供等へ」のくだりは、山本氏のお子さんたちのみならず、後世の日本人すべてに向けての言葉と解釈しています。僕もいろいろ迷いそうなとき、しばしばこの遺書を読みます。日本男児としてお生まれの方々、僕の駄文の記事など読まずとも結構ですので、遺書は是非一度、お目をお通しください。

遺書

 

この山本幡男氏の記事はありがたいことに「良質な記事」に選定していただきましたが、執筆に長くかけたから良質な記事になるとは必ずしも限らないようです。今年6月に良質な記事としていただいた「渋谷黎子」氏は、今年のゴールデンウィークの帰省時、飛行機の機内での暇つぶしに文庫本を買って、それを読んで偶然知った後、6月初旬にウィキペディアタウンのイベントがあり「皆さんにお逢いするには新記事の一つでも書かないと格好がつかない」と思い書き上げました。つまり1か月もかかっていないにも関らず、良質な記事に選定していただきました。ついでにいうとこれは今までで一番長い記事です。25歳で早世した人物がなぜここまで長くなったか……?

渋谷黎子 - Wikipedia

さらには、執筆者仲間N氏の大のお気に入り「なんちゃっておじさん」に至っては、1週間で書き上げた次第です。

なんちゃっておじさん - Wikipedia

 

ところで最初の山本幡男氏の話に戻しますと、僕は時折り、初版投稿の日時をわざと選ぶことがあります。

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山本氏の命日にこの記事を捧げたなんて、どなたも気づかないでしょうね(^^;

 

雑感

FacebookTwitterと違って、ブログだといつもタイトルに悩むのですよね……(^^; いわゆる人気ブログを読むと、タイトルだけで惹きつけられるものが多々あり、そうしたセンスが欲しいなぁと思う今日この頃です。

 

先日触れた函館盲唖院跡地の画像は早速、佐藤在寛先生の記事に活用しました。

「佐藤在寛」の版間の差分 - Wikipedia

File:Hakodate moain ato.jpg - Wikimedia Commons

この画像をウィキメディア・コモンズにアップロードするにあたり、日付を「2018年9月25日」と記載するからには、「彼は9月の連休中に小樽に滞在したはずが、なぜ函館の写真を撮影しているのだろう?」と周囲に勘ぐられのではないかと危惧し、函館に行ったことをこの場で暴露したのが真相です(←小心者)。

 

さて最近の執筆活動ですが、どうしても今月中にウィキペディアの方で書き上げない記事がありますので、そちらに専念することにして、好評かどうかはわかりませんが「人間って、おもしろい」シリーズは来年以降とさせていだきます。以前も申しましたが、好き勝手に掲載時期を決められるのが個人ブログの強みですね。

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北海道を拓いた偉人たちの歴史を綴る愛読書『ほっかいどう百年物語』を、図書館で読むだけでは飽き足らず、とうとう自前で全10巻(古本ですが)揃えてしまいました。大勢の偉人たちを前に「これはウィキペディアで書くか、これはマイナーなのでブログのネタで小説仕立てで展開するか」と目下、試行錯誤中です。

北の大地はまだまだ宝の山です(^^)

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (3) 戦火に散った若き命・森稔 (後編)

(前編より続く)

 

人間魚雷「回天(かいてん)」による出撃が下った、同1944年(昭和19年)12月。

森さんたちは、最後の帰省が許可されました。戦時下ではとても北海道まで行けず、東京で落ち合うよう、家族宛てに連絡をとりました。

 

東京で、母と兄が森さんを迎え、久しぶりに家族3人が出逢いました。

 

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(森さん〈右〉とお母さん)

 

森さんは最後の親孝行のつもりで、給金を差し出しました。

「母さん。小遣いに持ってきたんだ。受け取ってよ」

「そんな。あなたが一生懸命稼いだお金なんて、受け取れないわよ。それより、お父さんからお小遣いを預かって来たの。何か、好きなことに使って」

母子共、お互いに受け取りを拒んでばかりでした。そこへ兄が助け舟を出し、2人分の金を合せて短刀を買い、お守りとして森さんに贈りました。

「ありがとう。大事にするよ」

 

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(森さん〈右〉とお兄さん)

 

家族水入らずの時間に、次第に別れの時刻が迫ります。

「そうだわ。せっかく東京に来たんですもの。靖国神社へお参りに行きましょうよ」

「いや、いいよ。どうせ、すぐ帰って来るから」

靖国神社といえば、軍人や戦死者を祀る神社です。

(俺はじきに、あの神社に祀られる。今はできるだけ長く、母さんの姿を見ていたい……)

回天や特攻は軍の最高機密であり、他言無用として、家族相手にすら口を封じられていました。森さんは家族と過ごす最後の時まで、回天のことも特攻のことも話すことなく、心の中で密かに、母に永遠の別れを告げました。 

(母さん、今まで俺を育ててくれて、ありがとう。今度は、俺が母さんを守る番だ!)

 

森さんは帰省から基地に帰ると、土産に、2つお揃いで買った木彫りの熊のキーホルダーの1つを、親友の三枝さんに贈りました。

「これを持っていてくれよ。俺たちの友情の証だ」

「大事にするよ。ありがとう」

 

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(森さん〈左〉と三枝さん)


同1944年11月の回天の初出撃を経て、翌12月、ついに森さんたちの出撃が迫りました。

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(出撃前日、神社での拝刀)

 

12月30日。森さんや三枝さんたちを乗せた潜水艦は、予科練の先陣を切って基地を発ちました。

三枝さんが、森さんに言いました。

「こんな時代じゃなかったら、もっと勉強していたかったな……」

森さんは無言のまま、いつものような天真爛漫な笑顔で応えるのみでした。

 

潜水艦は、南海方面へ向かっていました。森さんと三枝さんは、上官にこう話していました。

「自分たちは、日本では見られない、南国の夜空の星を知りません」

南十字星を見るのが楽しみであります」

 

やがて回天での出撃が迫ったある日、森さんと三枝さんは、潜水艦の航海長に尋ねました。

「航海長、南十字星はどの星ですか?」

「うむ、教えてやろう、あの星だ」

航海長は森さんたちを艦橋に連れて行き、南海に輝く南十字星を指しました。森さんたちはそれをじっと見つめ、さらに北天に輝く北斗七星と北極星に視線を移し、それらをずっと眺めていました。

南十字星を見る夢が叶いました。航海長、ありがとうございました!」

「ありがとうございました!」

森さんたちは航海長に何度も礼を言って、艦内に戻りました。

 

年が明けて、1945年(昭和20年)1月12日。

潜水艦はグァム島北西部の港を目指していました。目的は、この港での敵艦への特攻。森さんたちはすでに、回天へ乗り込んでいました。

 

艦長からの命令が下りました。

「発進、始め!」

艦長は通信の声に耳を澄ませましたが、森さんからの声はありません。

無言のまま、森さんの回天が発進しました。

 

森さんがその後、どうなったか── 正確な記録は残されていません。

 

軍にとって極秘事項であった回天や特攻が、森さんの家族宛てに伝えられたのは、それから約2か月後、同1945年3月でした。

1945年1月12日、森 稔さん、戦死。満18歳没。 

 

終戦後の1968年(昭和43年)、大津島に回天記念館が開館しました。入口へ続く小道の両脇の石版には、回天による戦没者、計145名の名前が刻まれています。 

 

森さんは出航の前夜、兄に宛てて遺書を書いていました。

この遺書の結びの短歌が、森さんが家族に宛てた最期の言葉となりました。

 

「大君の 御盾となりて 征かむ身の 心の内は 楽しくぞある」

 

参考文献)

三枝義浩 『語り継がれる戦争の記憶』1、講談社〈KCデラックス〉、1995年11月。ISBN 978-4-06-319638-2。

鳥巣建之助 『人間魚雷 特攻兵器「回天」と若人たち』、新潮社、1983年10月15日。ISBN 978-4-10-349101-9。

行方滋子「予科練訪問記 第五回 (PDF) 」 、『月刊豫科練』第428号、公益財団法人 海原会、2015年5月1日、 NCID AA12535565、2018年11月18日閲覧。

宮本雅史 (2007年6月6日). “誰がために散る もう一つの「特攻」(2) 死の宣告 孤独と恐怖…押し寄せ”. 産経新聞 大阪朝刊 (産業経済新聞社): p. 27

ほっかいどう百年物語 北海道の歴史を刻んだ人々──。』第四集、2004年3月31日。ISBN 978-4-89115-123-2。

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (3) 戦火に散った若き命・森稔 (前編)

初っ端からネタバレしますと、今回は太平洋戦争の戦死者の話です。

これを「おもしろい」と題するのは不謹慎と言われそうですが、もちろん戦死のことをゲラゲラ笑って滑稽に感じたわけではありません。この人物に非常に興味をもったのです。 辞書では「おもしろい」は「興味深い」との意味もあります。正直申しまして改題も検討しましたが、敢えて「おもしろい」で通させていただきます。

 


 

太平洋戦争も日本の敗戦濃厚となった戦争末期。旧日本軍で起死回生、状況打破として考案された作戦の一つに、神風特別攻撃隊に代表されるであろう「特別攻撃隊 (特攻)」があります。

軍人や役人はいうにおよばず、民家の一般人までが戦争を賛美し、戦争反対などと誰1人言わなかった時代……とはいえ、死ぬことが義務だった特攻隊員の心情とは、どんなものだったのでしょうか。その特攻隊員の中に、20歳に満たない少年がいました。

 

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(みのる)さん。

 

1926年(大正15年)5月18日、北海道赤平村(現・赤平町)で、町の名士の次男(※)として生まれました。学生時代は学業に励み、体格にも恵まれ、スポーツ万能でした。その上に性格は裏表が無く、天真爛漫で、皆に好かれました。

 

1937年(昭和12年)、日中戦争が始まりました。当時の少年雑誌には、空を舞う戦闘機や、それらを駆る兵士たちが、勇敢な姿として描かれていました。少年たちにとって戦闘機のパイロットはまさにヒーローといえ、みんなが憧れを抱いていました。森さんもまた、その1人でした。

「俺は戦闘機乗りになると決めた! そして空の上から、皆を守るんだ!」

 

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(1939年(昭和14年)、中学入学当時の森さん。まだ純真に戦闘機乗りに憧れていた頃)


1941年(昭和16年)、時代は太平洋戦争へ突入しました。近所の男子たちが次々に召集され、出征してゆきました。後には女、子供、老人が残るばかりでした。森さんにとって、軍に入ることはかつての夢でしたが、次第に現実味を帯びてきました。

「みんな、家族を置いて戦争に行かなければならないんだ…… 俺があの人たちに代ってやれたら、どんなにいいだろう」

 

1943年(昭和18年)。森さんは海軍の甲種飛行予科練習生、通称「予科連」を受験しました。これは海軍創設による航空兵養成機関で、いわば航空兵への最短コースです。

海軍飛行予科練習生 - Wikipedia

森さんは見事、予科練に合格しました。合格を決めた日、学校からの帰りの汽車内で、下級生を呼び止めて言いました。

「お前、鞄を持っていないんだろう? 俺はもう要らないから、やるよ」

帰宅時には、森さんは鞄を持って自宅を発ったはずが、教科書やノートを紐で縛って肩から提げており、母を驚かせました。

「稔。あなた、鞄はどこへやったの?」

「俺はもう要らないから、鞄の無い奴にあげて来た」

隣人愛にあふれ、困っている人を見捨ててはおけない。それが彼の性格でした。

 

この予科練時代に、休暇がありました。森さんは赤平の叔父さんのもとを訪ね、こんな会話を交わしたそうです。

「稔。お前は何年くらいで少尉になれるんだ?」

「叔父さん、少尉なんてなれませんよ。俺はいずれ死ぬんですから。今は、その死ぬ方法を練っているんです」


やがて戦争は激しさを増し、日本は物資不足に喘ぎました。予科練も例外ではなく、飛行機や燃料の不足から練習にも事欠きました。そのため、2年4か月で訓練を終える予定が、その約3分の1、たった9か月で繰り上げ卒業が決定しました。

 

卒業間近の1944年(昭和19年)。予科練で、新兵器への搭乗者の募集がありました。

戦況打破、敵軍撃破のために開発された新兵器への搭乗者の募集。

ただし、生還を考慮せず開発された兵器のため、熟考の上で応募せよ──

「敵軍の本土上陸を阻むためなら、どんなことでもやってみせる!」

森さんは、迷わず応募しました。このとき応募者は、全体の90パーセント以上だったといいます。

 

予科練を卒業した森さんたちは、瀬戸内海の大津島の基地へ配属されました。

この基地で森さんたちへ、その新兵器が初めて公開されました。

回天(かいてん) - Wikipedia

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(画像はウィキメディア・コモンズより)

当時の魚雷は命中率が低かったため、有人に改造した魚雷に兵士が乗り込んで直接操縦し、兵もろとも敵機に体当たりする人間魚雷です。破壊力は、戦艦を撃沈するのに十分でしたが、搭乗する兵士はもちろん、撃沈と共に命を落とします。

森さんたちは改めて、出撃すれば本当に、絶対に生還不可能と知らされました。

上官からは「辞退者は責任をもって原隊に帰す」と言われましたが、森さんを含め、辞退者は皆無と伝えられています。

 

森さんたちは大津島で、回天の操縦の練習に励みました。操縦は困難を極めました。海中に入ったが最後、視界はゼロであり、傾斜計で角度を、砂時計で距離と時間を測るのみでした。

「敵の上陸を阻むため、大勢の人々の命を守るためだ。何としても、この困難を乗り越えてみせる!」

森さんはその頭脳と恵まれた体力で、操縦訓練をこなしてゆきました。

 

この年、森さんに命令が下りました。幸か不幸か、鍛え抜かれた抜群の操縦技術により、予科練からの初陣として選抜され、同1944年12月に出撃するよう、命令が下ったのです。

 

その後のある日、基地で演芸会がありました。森さんは滑稽な歌と踊りで、皆を爆笑させました。すでに特攻の命令を受けていながら、明るく振る舞う森さん── 基地内で親友となった三枝 (まこと)さんは、彼の度胸に驚いたといいます。

 

(後編に続く)

 

(※次男ではなく三男との説もあります) 

 

伝説の土地へ!

北海道胆振東部地震から約3か月が経とうとし、あの地震のニュースが報じられることも、まばらになりました。

「そろそろ時効かな」と思い、自白しましょう。


Facebookでも触れました通り、あの地震の後、郷里の北海道小樽市の家族の無事な姿を見たいがため、9月の秋分の日の連休を絡めて休暇を取得し、5泊6日で郷里の北海道小樽市へ帰郷しておりました。


その間……

実は9月22日(土)~24日(月・祝)、2泊3日で函館へ行っておりました。


なぜ、そのことをFacebookでまったく触れないのか?

地震当日、9月6日(木)早朝。恥かしながら、地震発生を知ったのは出勤電車内。出社後に即、郷里の母に電話しました。しかし地震による停電中にも関らず母の携帯が充電不足とのことで、「みんな無事、大丈夫」とだけ確認後、仕事につきました。

僕はウィキペディア東日本大震災の記事もいくつか執筆しており、資料中、辛い避難生活のことも目にしました。もし家族があんな目に遭っていたら……と、仕事がとても手につかず、お恥ずかしい話、仕事中に涙をボロボロ流しておりました(※実は涙腺が緩いとよく言われます)。同僚の目も同情的で、上司に「そんな調子じゃ仕事にならないでしょう」「もう今日は帰りなさい」とか言われる始末です。

結局は、被害はずいぶん少なかったわけですが……

そして9月の連休に帰郷を決めたところ、家族は地震発生以前、8月頃より、9月末の連休に兄のマイカーで函館旅行を計画していたとのこと。当然、僕も旅行に同行することになりました。

ところが職場では、「彼は地震で大変な目に遭った家族のもとへ駆けつける」というイメージがすっかり定着してしまっています。おまけにFacebook友達の何人かは上司と同僚です(^^;とても「函館旅行へ行く」なんて、遊び気分のようなことは言えなかったのです……

そのような事情で、僕が9月22日~24日に函館にいたことは、ブログをご覧になっている皆様だけの内緒話にしていただけますと幸いです。

別に北海道へ函館旅行に“だけ”行ったわけではなく、Facebookに載せている「地震の影響で電車が遅延」「スーパーやコンビニは品不足」「がんばって、品物の揃っている遠くの店へ行った」といった話も、写真を載せている通り、紛れもない事実なのです(^^;


さて、家族皆で函館の道中。

兄の車でドライブ中、何となく窓から外を眺めていると、目に飛び込む文字がありました。

「函館盲唖院」

えっ? 嘘!?

あの佐藤在寛先生が院長を勤めた函館盲唖院(北海道函館聾学校の前身)が、ここに!?

函館だから、僕が書いた函館の偉人ゆかりの場所へ行けるかもと思ったけど、まさか本当に通りかかるなんて!

佐藤在寛 - Wikipedia

兄からは「どこか行きたい場所があるか?」と聞かれていましたが、自分で言うのも何ですが、消極的な性格の僕は家族に対してすら遠慮深く、「ウィキペディアのために函館盲唖院の場所へ行きたい」などと言い出せません。

元町公園旧函館区公会堂を見学して回った後、家族が「ちょっと休憩しよう」と言い出しました。

その場所から、先ほど「函館盲唖院」と見かけた場所まで、徒歩で5分もかかりません。

今を逃せば、次の機会はいつ訪れるかわかりません。思い切って言いました。

「ちょっと、あっちを見てきていい?」

確か、この角を曲がって、この道を降りて……

あった、看板!

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「この上120m 函館盲唖院跡地」

もはや、気持ちを抑えることなどできません。120mの上り坂を駆けました(※函館は坂が多いのです)。

もうすぐだ!

佐藤先生のあの場所が、もうすぐそこに!

そしてついに、ついに辿り着きました。

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「函館盲唖院跡地」

函館盲唖院は昭和中期に聾学校と盲学校に分かれ、それぞれ別々の地に移転したので、盲唖院のあった場所には「跡地」の看板が建っているのみで、建物自体は影も形もありません。

しかし、その場には確かに、佐藤先生のオーラが満ちています。かつてここで、子供たちのため、聴覚障害者のために佐藤先生が奮闘していたのです。

自分は今、確かにこの場所にいる。心臓の鼓動が増し、涙がこみ上げそうでした。

佐藤先生の偉業に比べ、自分の何とちっぽけなことか。いい歳をして独身、職場で未だに何のポストにも就かない、いつまで経っても低月給の非正規、底辺中の底辺会社員。

そんなへっぽこな自分が、畏れ多くも佐藤先生の記事を書き、こうして先生に逢いに参りました。

別に墓地でもないのに両手を合せ、写真撮影した後、家族のもとへ戻りました。

この後、30分ほど余韻に浸っており、家族と共にどこを回ったか、よく憶えていない始末です。

 

やはり僕は、自分を育んでくれた北海道の地、そしてこの地を築き上げた偉大な人々のことを、もっと書かなければなりません。

まだまだ大勢の偉人たちがいらっしゃるのです。

へっぽこな自分ですが、へっぽこなりに腕を振るいましょう。

数々の偉業を世に伝える、そのために!

 

最後に── 今回のタイトルは、以前触れた笠原弘子さんの楽曲『約束の土地へ』をもじりました(またアニメのパクリかよ……)

総括

関根タメヨさんの伝記「北極星に支えられた開拓者」、昨日の最終回にて、堂々(?)の完結です。

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑪(終)

 

一昨日(最終回前日)は、本業が今までに輪をかけた多忙さで、夕食は夜の帰り道に路上を歩きながら、コンビニおにぎりを無理やり腹に収めるだけした(←マナーの悪さは百も承知です、本当に時間が無かったのです)。疲労からか、二度ほど立ちくらみで倒れそうになり、1度目は壁にもたれ掛って倒れずに済み、2度目は「ここで倒れたら最終回を書けない」と歯を食いしばって我慢し、帰宅後に吐きそうになりましたが耐えて、翌朝、書き上げた次第です。まったくもって、書いても一銭の得にもならないことに、我ながらよくもまぁ、こんなに一生懸命になるものです。

 

全11章にもわたり、こんな駄文にお付き合いいただいた皆様、本当に本当に、心より感謝です。ありがとうございました。身勝手な自己満足で始めた企画に、まさかここまで読者様が増えるとは驚きし通しでした。

(もちろん読者数何百・何千・何万の大人気ブログには到底、比較になりませんが)

 

できましたら、ちゃんと読者皆様のブログを見て回り、興味のあるブログは読者となり、お礼を述べたいのですが、時間が無い事に加え、如何せん、先月はてなブログを始めたばかり。読者がどなたか、よくわかりません。この間、読者一覧を確認する方法を見つけたはずですが……失念しました、すみません。今度発見したら、ちゃんとメモります。

 

FacebookTwitterでは連載開始のことをお知らせしましたが、TwitterはともかくFacebookは友達限定ですので、それ以外の皆様が一体このブログをどこで存じ上げたのか? Google検索? 未だに仕組みがよくわかっていません。

twitter.com

 

Google検索といえば、関根タメヨさんや富田ユキさんを、ウィキペディアではなくブログで書き始めたのは、「Google検索であまりに検索数が少ない」ことが理由の一つでした。
現在検索してみると、当たり前といえば当たり前ですが、このブログがしっかりヒットするのですね。何かの折に関根タメヨさんや富田ユキさんといった人物を知った方々が、Google検索でこのブログにいらしてくださり、偉人たちの人生を知ってくださったなら、こんな嬉しいことはありません。

 

ちなみに第1章を知人に見せたら、感想は開口一番、こうでした。

「……これだけ?」

要は「短い」ということです。もっと章あたり長くても良かったでしょうか。個人的には、ほんの暇つぶしくらいに、ちょこちょこっと読める程度の長さを、と考慮したのですが……

 

章あたりの長さといえば、全11章それぞれの長さ、実は結構バラバラです。最初に大ざっぱに全体をテキスト化し、「サイズ的にここで区切りかなぁ…… でも物語としてまとめると、尻切れトンボになっちゃうし……」と結構苦労しました。連載って難しいですね。この辺、他のブログを読んで勉強させていただきたく思います。

 

さて第3弾以降ですが、果たして期待してくだる奇特な方々がどの程度いらっしゃるか、Facebookなどで質問しようかと思いましたが、辞めました。期待してくだる方々の有無にかかわらず、所詮は自己満足企画ですので、このまま続行させていただきたく思います。

ただし準備期間を要しますので、すぐには再開できません……すみません。