執筆記

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「人間って、おもしろい」 人物伝 (4) 道北鉄道を陰で支えた「北見のおばば」・菊地トメ (前編)

北海道北見市、JR北見駅。ここには「北見のおばば」と題された記念碑があります。

北見市観光テキスト

この「北見のおばば」なる人物は、鉄道員でもなければ、鉄道を造った人物でもありません。
この女性こそが、鉄道を動かす男たちの世話をし続けた、たった1人の女性── 旧国鉄時代に道北の交通の要といわれた北見の鉄道を、20年以上にわたって人知れず支え続けた、陰の功労者です。

 

菊地 トメさん。

 

1896年(明治29年)、呉服店の五女として生まれました。この家の子はトメさんを含めて5人とも女子でしたが、トメさんはニシン景気に沸く地元の漁師たちに囲まれ、男勝りの性格に育ちました。

 

16歳になった夏の日、地元の神社のお祭りで、草相撲がありました。その決勝戦、土俵で男2人が組み合い、片方が相手の股間を蹴り上げ、勝ちを収めました。トメさんは「そんな卑怯な手まで使って勝ちたいのか!? なら、私が相手だ!」と、何と自ら土俵に登りました。幸いにも制止に入った者がいたので、男相手に相撲をとることはありませんでしたが、トメさんの性格を表すエピソードです。

 

しかし父の源蔵さんが、助右衛門という男に騙されて投資に失敗し、家は破産してしまいました。幸いにも長女と次女はすでに嫁いだ後で、どうにか昔の伝手を辿って三女を嫁がせた後、母・おこうさんは心労で寝込んでしまいました。源蔵さんは借金を抱え、どうにもならず呆けた日々を送っていました。

 

トメさんは家計を助けるため、姉(四女)のタヨさんと共に、芸者の道へ入りました。1年の修行を終え、2人は座敷に立ち、芸者の日々を送りました。やがて、酒や芝居などを憶えていきました。

 

あるとき芝居を見た帰り、トメさんは道端で、思わぬ男性と再会しました。かつて祭りの相撲で、股間を蹴られたあの男です。名は村社 大五郎さんと言いました。この再会を機に、トメさんは次第に大五郎さんに惹かれました。

 

 

トメさんが25歳のときのこと。実家では、母おこうさんは幾分か回復したものの、父の源蔵さんは腎臓を病み、それ以上に心を病んでいました。そこへ、かつて彼を騙したあの助右衛門が訪れ、「トメをくれれば商売の助けに支度金を出す」と言い出しました。それを知ったトメさんは、大五郎さんのことも心にあったものの、家を助けたい一心で、素直に従いました。

 

数日後、助右衛門がトメさんを迎えに来ました。そこへ1人の男が現れ、札束を叩きつけ「金は返した! とっとと失せろ!」。続いて大五郎さんも現れ、トメさんはわけもわからず2人に連れられて逃げ出しました。

 

トメさんを救った男の名は欣之さん。実は大五郎さんにあのとき相撲で勝った男でした。2人は、あの相撲がきっかけで無二の親友となり、トメさんの危機を知って駆け付けたのでした。もはやトメさんは岩内には居られません。欣之さんの手引きでトメさんは大五郎さんと共に、岩内を発ちました。

 

 

トメさんたちは夫妻となって北海道内を旅した末、オホーツク海に面する道北の湧別町に落ち着き、リンゴ農園を始めました。この湧別で、旧国鉄職員の遠藤赳男さんと知り合い、4年後には遠藤さんの依頼で、国鉄の独身寮の賄いも始めました。

 

1923年(大正12年)。トメさんは、「父 危篤」との報せを受け、岩内に飛んで帰りました。源蔵さんは「迷惑をかけたな。勘弁してくれ」と言い遺し、逝きました。

翌年には母おこうさんも、「借金の形にもしないで遺しておいたこの着物がこれだけある。皆で分けておくれ」と言い遺し、逝きました。

 

トメさんが岩内を去って約10年経った頃。トメさんを鉄道の寮に手引きした遠藤さんが訪ねてきました。当時の遠藤さんは野付牛(北見)に勤めており、北見の国鉄の独身寮に勤めて欲しいとの依頼でした。北見の鉄道は重要な交通であり、寮には80名もの青年が寮生として住んでいましたが、寮母の評判が悪く、寮生との仲がうまくいっていないというのです。
トメさんは、ようやく住み慣れた湧別を離れることに最初は抵抗しましたが、遠藤さんに懇願され、北見行きを決意しました。

 

北見の独身寮「静心寮」。そこでは、不良じみた寮生たちが待っていました。

「長旅でお疲れでしょう。まぁ、一杯」

彼らは新米の寮母を完全に甘く見てかかり、酔い潰そうと酒を勧めました。トメさんは芸者上がり、彼女から見ればこんな若者の企みはお見通しです。昔取った杵柄で、その酒を一気に飲み干すや、顔色一つ変えず、立て続けに5杯を飲み干しました。寮生たちは完全に圧倒され、たちまち見る目が変わりました。

「今度の寮母はただ者じゃないな……」

 

1932年(昭和7年)。石北トンネルが開通し、鉄道業はいよいよ活発になりました。寮ではトメさんたちに寮生たちがすっかり懐き、トメさんも仕事にも張りが出ていました。ところが大五郎さんの方はもともと寮の仕事には消極的であり、やがて寮以外の仕事に手を出し始めました。

 

「私は寮の仕事を続けたいんです。本当にその仕事を始めたいんですか? だったら、別のところでやってください。この際ですから、思い切って別れましょう」

トメさんは大五郎さんにそう言い、なんと短刀を手にしました。

「……わかった。別れよう」

 

こうしてトメさんは、離婚して菊地姓に戻りました。大五郎さんは樺太へと渡り、トメさんは寮に人生を捧げる決心をしました。

「おばさん。おじさんがいないけど、どこかへ行ったのか?」

「亭主とはもう別れた。私はもう、1人のトメだ。これからは『おばさん』じゃなく、『ばばあ』とでも呼んでくれ」

このとき、トメさんはまだ36歳。さすがに「ばばあ」とは呼べず、いつしか「おばば」の呼び名が定着しました。ちなみに当時の北海道では、「おばば」はごく一般的な呼び名でした。

 

 

(後編へ続く)