執筆記

ウィキペディア利用者:逃亡者です。基本的にウィキペディア執筆に関しての日記です。そのうち気まぐれで関係ないことも書くかもしれません。

今日の新着記事

たまにはリアルタイムな出来事の紹介です。先日執筆した以下の記事が、本日の新着記事に紹介されています。ご投票くださった皆様、ありがとうございます。

坂本文子 (平和運動家) - Wikipedia

実はこの記事、脚注にありますウェブ資料の閲覧日時にあります通り、実は2016年10月に書いていた記事です。なぜ今まで放ったらかしていたかというと、人物伝に不可欠と思われる「出身地」が、手近な図書館の資料ではまったく見当たらなかったのです。後に遺稿集があると知り、遺稿集であれば氏の生涯が統括された情報があるだろうから……と思い、先日の18日(土)に国会図書館へ行き、その情報を発見できた次第です。

ついでにいうと2017年7月から今年の1月まで、僕は一度も国会図書館へ行っておりません。実は利用者カードを紛失しておりました(^^; 今年1月「ウィキペディアンが「棚から一掴み」してみたら」開催にあたり、同イベントで紹介すべき『地球の秘密』の調査の必要性が生じ、国会図書館へ赴き、利用者カードを再発行していただいた次第です。

 

しかし今回の「坂本文子」は、「ちょっと思いついて書いてみた」レベルの記事ですので、こうした記事を新着で紹介して頂いて「いいのかなぁ……」という気持ちになります。僕が記事を書くときは「ちょっと思いついて書いてみる」ときと「これがウイキペディアに記事が無いのは間違っている。絶対に書くべきだ。誰も書かないなら僕が書く!」との信念にかられて書くときがあります。ちなみに先日そうして後者の姿勢で書いた船山春子は無事、良質な記事に選定していただきました。ご賛成くださった皆様、ありがとうございました。

 

思いつきで書いたにもかかわらず、予想外の反響を得た記事といえば、これがあります。

馬鹿は風邪を引かない - Wikipedia

これは当時の職場で風邪が大流行し、社員が次々に休み、休まないのといえば僕くらいでしたので「どうして僕だけ風邪をひかないのか? あ、馬鹿は風邪をひかないからか」と、ふと思いついて書いてみた記事です。ついでにいうと、書き上げる寸前に風邪をひき、ちょっと完成が延びてしまったというおまけつきです。

この記事、月間新記事賞の投票ではたった4票しか入らなかったにもかかわらず、2017年2月度の賞を受賞してしまいました。それも、第2位で。それもそのはず、新着投票所/新しい項目候補時点で13票……入り過ぎだっていうの(^^; 他を見回しても10票以上なんてそうそう見かけません。やっぱりこの手の記事はタイトルの時点で目を引きやすいのでしょうか。おかげで良質な記事の選考は相当苦労した挙句、見送りとなりました。選考中は(そんなつもりで書いた記事じゃないんだよ……)と思い、選考期間が延長になったときは(とっとと終わってくれ~)と心の中で叫んでいたものです。まったく、以前にも書きましたが、世の中、何が反響を得るかわからないものです。

 

職場の移転など

書いておりませんでいたが、4月上旬に、職場が川崎に移転しました。昨年1月に川崎から東京の晴海へ移転したのですが、元の場所に戻ったわけです。おかげで川崎図書館は職場からの徒歩範囲となり、仕事帰りに横浜市立図書館や神奈川県立図書館へ行くのも容易となりました。

 

『ルポ 私たちが生きた平成 人と社会はどう変わったか』も、発売日当日に川崎駅ビルの有隣堂で即、購入できました。執筆者様である新聞記者さんからの献本は、母に読ませたいところが、GW帰省前までに受け取れるか微妙でしたので、献本は郷里の実家へ送っていただくよう依頼し、自分の分は自前で購入した次第です。実のところ文面は記者さんからメールでいただいていたのですが、改めて読むと、これが全国に晒されるかと思うと、やはり恥ずかしいですね……

 

また、この川崎の職場では徒歩範囲にミニストップがあり、他の多くのコンビニと違ってコピー料金が5円で済みますので、大量のコピーには大変重宝します。晴海勤務時も、職場ビルの1階にダイソーがあり、そこのコピーも5円でしたが、職場がビルの40階以上も上でしたし、東京という地のせいもあって非常の人の出入りの多いビルでしたので、ビル内をあまり動き回るのは、生粋の田舎者として好きくなかったのでした。

 

唯一の不満は、川崎地下街にあった川崎図書館の返却ポストが無くなったこと、神奈川県立川崎図書館が移転したことでしょうか。特に後者、川崎駅から歩いて行こうと思えば行ける距離でしたので、神奈川県立の資料を所望したときには川崎へ取り寄せ、歩いて行って借り、返却時も川崎から歩いて行って返却した……と言った具合に、通勤定期で図書館が利用できて重宝しておりました。横浜駅から徒歩圏内にある「かながわ県民センター」には県立図書館のカウンターがありますが、あぁいった利用場所が川崎駅にもあればいいなぁ、と思っている次第です。

Wikipediaブンガク 松本清張

ブログの前回更新から1か月が経とうとしています。つまりは報告しなければならないことから1か月近く経っているわけです。今さらですがこのブログ、実際の出来事とブログ更新がまったくシンクロしておらず、申し訳ありません。GW中は腐るほど暇が有ったはずなのですが……(^^; 執筆仲間S女史は「ときどきサボる」とのことですが、実のところほぼ毎日ブログを更新されており、頭が下がる思いです。

 

さて4月21日(日)は、Wikipediaブンガク第3回「Wikipediaブンガク 松本清張」に参加してまいりました。もうイベントで何度もご一緒しているN氏やS女史も共にご参加ということもあり、今回も楽しく過ごすことができました。

プロジェクト:アウトリーチ/ウィキペディアタウン/アーカイブ/2019 - Wikipedia

www.klnet.pref.kanagawa.jp

第1回・第2回は神奈川近代文学館主催でしたが、今回は文学館と神奈川県立図書館のコラボで、文学館で清張の展示を見学した後、図書館に移動し、図書館で執筆するとの新たな試みでした。

朝に近代文学館へ向かう際は、メッセンジャーのやり取り中に、以前イベントでご一緒して今回もご参加予定のK氏と同じ電車だと判明(ストーカーだとか思われなかっただろうか(^^;)。電車を降りたところで落ち合い、文学館までご一緒しました。2回参加している僕としては「文学館への道はこちらですよ」と案内したつもりが、内心(あれ? こっちで合ってたかな……)と思いつつ、文学館が見え、思わず「あぁ、良かった、こっちだ」と言ってしまい、迷っていたことがバレてしまいまいた。

 

今回の僕の成果は、松本清張氏の作家生活約40年の内、実に約30年にわたって編集者を務めた藤井康栄氏。新規記事ではなく、すでに記事は有りましたが、「複数の問題があります」「書きかけの項目です」状態でして、その加筆です。加筆前は約2000バイトだったところを、当日のみで約6000バイトまで書き足し、後日の加筆も含めて約18000バイトにまで書き上げることができました。

藤井康栄 - Wikipedia

予習時は、「藤井氏の目から見た清張氏」という情報は多くあれど、肝心の藤井氏の人物像を現す情報が少なく難航の予感でしたが、神奈川県立図書館に豊富な資料を揃えていただき、非常に助かりました。

 

ちなみに19日(金)、仕事後に予習のために神奈川県立図書館へ行き、清張関係の雑誌のバックナンバーを依頼し、到着を待っていたところ、カウンターから「これ、今度のイベント用の雑誌なんじゃないの? ヒソヒソ」と小声が…… そして館員さんに呼ばれ、「別の場所に保管しているので時間がかかりますが、お持ちします」とのこと。そして雑誌を運んできてくださったのが、何度もイベントでお逢いした、県立図書館にお勤めのK氏。事前にフライングして予習しているのがバレてしまいました。普段の仕事ではいつにもまして身嗜みがだらしなく、仕事疲れのヨレヨレの姿を見せてしまって恥しいです……。

その日の夜に『NHKラジオ深夜便 こころの時代 インタビュー集』なる本に、藤井氏のインタビューがあると判明。しかし県立にも横浜市立にも川崎市立にも蔵書なし。国会図書館か都立図書館へ行くか? しかし以前に国会図書館で、この手のインタビュー集である人物のインタビューの複写を依頼したところ、セクションまるごとは複写範囲が広すぎてNGと言われたことがありました。行っても無駄足になる可能性あり。Amazonで調べると、お手頃価格で古本が買えるが、21日当日までには届かない。ならばそこらの本屋で新品を買うか? ネットで在庫確認可能な書店をあたると、有隣堂の八王子支店のみ在庫あり! というわけで20日(土)、1時間以上かけて八王子まで行き、この本を買っただけで帰宅しました。交通費や新品での本購入など金を使ってしまいましたが、加筆には十分に役立ち、買った甲斐は十分にありました。

 

この他の本イベントでの新規立項や加筆の成果は、プロジェクト:アウトリーチ/ウィキペディアタウン/アーカイブ/2019の通りです。これらの内、S女史による力作「日本の黒い霧」は4月度の月間新記事賞を受賞されました。さすがです。(ついでに僕が書いたカボチャ陳情団も同時受賞し、目下、良質な記事の選考で重圧を喰らっている最中だったりします……毎月選考かよ)

 

イベント後は中華料理店の宴で、楽しく過ごしました。すでに次回予定の話も挙がっており、今から楽しみです(^^)

カボチャ陳情団

20日(土)に新規記事立項、21日(日)にイベント参加と、書かなければならないことが多いのですが、順を追って。まずは新規記事です。

カボチャ陳情団 - Wikipedia

2019年初の、北海道の人物記事、といいたいところが、人物「たち」です。

何の学も無い、特別な技術も無い、ただの人々…… そんな人たちが、郷土にかける想いだけで国を動かしたという熱い物語に心を打たれ、書かせていただきました。

いつものことながら、執筆時にはその人物の魂が自分に憑依するもので、資料集めのため、退社後に桜木町駅から神奈川県立図書館をめざし、仕事疲れの体に鞭を打ちつつ、きつい坂を登るときには、「この記事を書くため!」というより「北海道に鉄道を通すため! みんなに白いご飯を食べてもらうため!」と、執筆者と対象者の想いがごっちゃになっておりました。

気づけば翌日には早くもメインページの新着記事に掲載されておりました。僕は「人物記事はタイトルからして注目を引きにくい」と言ったことがありますが、「カボチャ陳情団」……あるいはお笑いグループか何かにも見え、注目をひいたのでしょうか。

 

FacebookTwitterで書きました通り、このカボチャ陳情団は、昨年3月の大阪ウィキペディアエディタソンでのGA記事「北の大火」と、少々縁があります。種明かしは、陳情団に資金提供をした人物── 当時の大阪のパンのブランド「マルキパン」の創業者にして、「東洋のパン王」として名を馳せた水谷政次郎氏です。

明治期、水谷氏は博覧会でパンの味を初めて知って感動、製パン業を始めます。しかしパン食が日本に定着しない時代、商売は難航。日々の食事は出来損ないや売れ残りのパンばかり、娘が生まれれば養女に出す他ない…… 「カボチャ陳情団」の大正期に財を成していた水谷氏は、当初はそんな低迷期が続いていたのです。

そんな水谷氏の一大転機となったのが、北の大火。この大火災で多くの人が焼け出され、消防士たちが消火のため奮闘します。この一大事に水谷氏は、店中のパンを持ち出し、私費を投じて大阪中を駆け回り、被災者や消防士たちの食料として、無料でパンを配りました。それでも足りないとわかるや、なんと自分の店中の金をかき集め、他の店のパンを買い集め、皆に配ったのです。

一段落ついた頃には、水谷氏の店にはパンも、新たに材料を買う金もありません。そんなとき夫人が「この金、使うて!」と紙幣を差し出しました。食うや食わずの生活の中でも、夫人はいざというときのために貯金をしていたのです。夫人のおかげで、水谷氏は再起して製パン業を再開できました。

「聞いたか? マルキパンの社長はんは、火事に遭った人たちのために、タダでパンを配ったそうやないか」

「おまけに他の店のパンまで自分の金で買い占めて、皆に配ったっちゅう話やぞ」

「それでやないで。社長はんが金が無くなっても、奥はんがヘソクリで助けたっちゅうんや! 山内一豊の妻やで!」

「これからは、パンを買うならマルキパンや!」

こうして水谷氏の名声が高まり、後に「東洋のパン王」の名で呼ばれるまでに大成した、というわけです。やがて水谷氏は、より良いパン作りのため、より良い小麦を求めて北海道の開拓地へ進出し、「カボチャ陳情団」へと関わることになるのです。

水谷氏のエピソードは「カボチャ陳情団」「北の大火」以外にも色々ありますが、それはまたいずれウィキペディア記事執筆時に……(書くのか?)

 

最近の動向…… 良質な記事選定、そして書籍デビュー!?

4月に新年度を迎え、新元号も決定したので、何となくブログのデザインも変えてみました。しかし、未だにしっくりきませんので、気まぐれでまた変えるかもしれません。自分好みのデザインを自分でカスタマイズするなどという器用なことができず、既存のテンプレートを選ぶのみです。前の職場では社内ウェブサイトの作成を担当していたはずなんだけどなぁ……?

 

さて、門外漢のキリスト教アメリカ人ということで意外に苦戦したピアソン夫妻、めでたく良質な記事に選定していただきました。良質な記事の選考においてM氏より加筆のご助言をいただいております…… その加筆より新規記事執筆を先にしてしまって、Mさん、申し訳ありませんです。写真撮影で遠出したいので、それを兼ねて来週にはなんとか図書館へ……と目指しております。

 

話は変わって、(過去にも少しだけ触れましたが)、元号が変わるにあたって共同通信で『私たちの平成』という連載企画がありました。簡単にいえば「平成時代にはこんな人たちがいた」と紹介する記事でして、昨年3月の記事に執筆者仲間N氏と僕の取材内容が掲載されてしまいました。昨年1月、仕事中に職場のパソコンに取材申込みがメールで届いたのですが、「なぜ!? Nさんは掲載当然として、僕よりもっと凄い執筆者さんが大勢いるのに、なぜ僕!?」と思い、デスクからひっくり返りそうになったものです。

記事が掲載されたのは東北の東奥新聞、九州の佐賀新聞など地方紙のみで、全国紙には結局載らず仕舞でしたが…… このたび連載の書籍化が決定し、結局は全国デビューすることになってしまいました。この報せも取材時の記者さんから職場パソコン宛てにメールで届き、またもやデスクからひっくり返りそうになり、隣の社員から思い切り不審な目で見られました(職場では僕のウィキペディア活動はあまり知られていません)。

www.iwanami.co.jp

この紹介文を読んで「あぁ、そういうコンセプトの連載だったんだなぁ」と改めて認識しています。30年後、50年後…… 新元号の令和(一発変換できるようにしとかんといかんな)時代がそこまで続くかわかりませんが、その未来の時代の人々がこの本を読んで「平成時代にはウィキペディアにこんな人がいたんだなぁ」と思える対象が僕で良いのか、未だ疑問に思う次第です。

 

ちなみによく「取材料はもらったのか」「印税は入るのか」と聞かれます。取材時は記者さんと一緒にご飯を食べながらの取材で、すべて奢ってもらい(経費で落ちるそう)、あの食事の代金が取材料でしょう。そして書籍化の後は印税で1冊献本してくださるそうですので、別に僕のもとに印税が入るわけではありません。要は、一銭も入らないのです……(^^;

じゃない方芸人

昨晩に書き上げた記事です。

じゃない方芸人 - Wikipedia

 

「お笑いが好き」っていうと、なぜか「意外」といわれるのですが…… 暇なときには結構Youtubeお笑い番組を見ています。

(なぜYoutubeか? 夜は早くに寝てしまい、テレビのゴールデン時間帯の番組をほとんど見ないから。且つ、ビデオを故障したまま放置していて録画もできないのです)

ここ数か月になって、なぜか『水曜日のダウンタウン』を見始めました。きっかけは確か、何かの検索で「24時間自転車生活」でヒットしたから、だったでしょうか? そしてこの番組を知り、いわゆる「じゃない方芸人」という言い回しを知りました。さらにお笑いコンビなどで既存の記事で、「誰々は相方の強い個性の陰に隠れ、いわゆる『じゃない方芸人』と呼ばれる」といった記述を多く見かけ、「『じゃない方芸人』が何たるかを、記事として解説べきでは?」と思い、書き上げた次第です。

 

残念なのは「じゃない方芸人」という言い回しは、テレビ以外にも現在は新聞や雑誌で使われていますが、いつ、何をもってこの言葉が定着したかが不明なことですね。たぶん『アメトーーク!』で企画の名前に使われたからだと思うのですが、そうだとする出典は見つからず仕舞いです。

 

記事中に出典に示したメルマガで、かつて綿矢りさ氏と金原ひとみ氏が芥川賞をダブル受賞した当時、当時の2004年にすでに「綿矢りさじゃない方」という言葉があったそうですれけど、思えばそれよりずっと前の1980年代、おニャン子クラブ の人気全盛時、「うしろゆびさされ組高井麻巳子じゃない方」って聞いたおぼえがあるなぁ……

 

外食戦隊ニクレンジャー

……という記事を、息抜きに書かせていただきました。
所要日数、たったの約2日です。

外食戦隊ニクレンジャー - Wikipedia

去年の秋でしたか、早朝に松屋で眠い目を擦りつつ納豆ごはんを食べていたら、やけに暑苦しいBGMが流れてきて「何だこりゃ!? 静かに食べたいんだけどなぁ……」。そして先月、久しぶりに松屋に入ったら同じBGMがかかり「これってそんなに流行しているのか!?」と思い、調べてみて「ニクレンジャー」なるテーマソングだと知り、書き上げた次第です。

画像のガスト、KFC、モスバーガー松屋は24日(日)が幸い快晴でしたので、図書館の本の返却ついでに川崎市内を歩き回って撮影しました。今頃気づきましたがガストの投稿はCafeレストラン・ガストのアカウントでしたので、SガストでなくCafeレストラン・ガストの画像が相応しかったですね。そのうち訂正したいです。

(2019.4.7付記 : ウィキペディア上の画像は訂正済みです。訂正前は下記のSガストの画像でした)

 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/archive/6/61/20190329224435%21Gusto%2C_KFC%2C_MOS_Burger%2C_Matsuya_in_Kawasaki.jpg

記事にも書きましたが、ブーム当時、コミックマーケットにはニクレンジャーのコスプレの人がいたり、ネットで調べるとハロウィンにもそのコスプレの人がいたらしいです。撮影して画像を載せたかったものです。さすが流行に疎い自分、いささかブームの時期を逃してしまったなぁ……