執筆記

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「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑦

(⑥より続く)

 

タメヨさんの夫の貞三郎(ていざぶろう)さんが、結核で死去した後のこと。次女のタツ子さん、長男の正行さんも、父からの感染により結核に罹患しました。正行さんは軽症で済みましたが、タツ子さんは重症でした。

タメヨさんは夫の最期を思い出し、土地を売ってでも娘を救おうと、医師に頼み込んで、高価なストレプトマイシンを何本も投与し続けました。約3年後にタツ子さんは治癒しますが、この治療費は莫大なものとなりました。タメヨさんたち関根家は、経済的に最大の危機に瀕しました。

 

農協に借金を申し込みましたが、収入の低さを理由に断られました。種モミを借りることすらできませんでした。タメヨさんは正行さんと共に、もとの蒼瑁(そうまい)村まで行って、かつての知人たちを頼り、どうにか農作業を凌いでいました。

止別(やむべつ)で誰かに頼ろうにも、移住から何年も経たない関根家は、いわば「よそ者」扱いでした。あるとき、当時はまだ貴重品だった砂糖が村の全戸に支給されることになり、皆が喜びました。しかし関根家は「移り住んで間もないから」との理由で、支給はありませんでした。タメヨさんは人の本性を見た思いで、一時は悲嘆したものの、すぐに気持ちを切り替えました。

「今の時代は、みんなが今日という日を生き抜くのに必死なんだ。人を憎むなんて、おかしい」

 

タメヨさんの考える通り、終戦直後の止別は、どこの集落も貧しく、毎晩のように寄合が開かれました。長男の正行さんは、亡き貞三郎さんの跡継ぎとはいえ、まだ18歳、未成年です。荷が重いと感じたタメヨさんは、自ら寄合に出向き、村の男たちと渡り合っていました。

 

子供といえば、タメヨさんは9人の子供たちを育てるにあたって「常に9人平等に」と考えていました。たとえば、父の忠助さんが慶事や法事の土産に羊羹(ようかん)を持ち帰れば、皆が甘味に飢えていた時代ですから、子供たちは大喜びします。しかし、羊羹はたった1本です。タメヨさんは羊羹を物差しで測り、わずかの狂いもなく9等分していました。何度も繰り返す内に、物差しを使わなくとも正確に9等分できるようになりました。それはまさに神技のような包丁さばきで、子供たちから拍手が巻き起こるほどでした。

 

度重なる不幸に、子供たちが先行きを不安がることもありましたが、タメヨさんは子供たちの前では、努めて明るく振る舞っていました。農作業の帰り道では、子供たちと共に、当時の流行歌『リンゴの唄』『東京の花売娘』などをよく口ずさんでいました。

「私まで暗く落ち込んでいては、子供たちに悪い影響が出る。明るく振る舞わなければならない」

 

終戦直後のあるとき。タメヨさんの次男の建二さんが、冬のオホーツク海へ訪れるアザラシを友達と狩りに行くと言い出しました。タメヨさんは「何日もかけてここまでやって来るアザラシを殺す必要があるの?」と激しく叱りつけ、建二さんを戒めました。

また、川へ産卵に遡るサケを密漁者が獲ろうとしたときには、タメヨさんは「川で卵を産んで死ぬ運命のサケを面白半分で殺していいの!?」と、厳しく説教しました。

タメヨさんは生来、生物に愛情を注ぐ性格でした。歳を経るに従い、次第に自然への慈しみが深まっていったのです。この自然に対する心情は、後の自然保護運動へと結実していきます。

 

(⑧へ続く)