タメヨさんの夫の
タメヨさんは夫の最期を思い出し、土地を売ってでも娘を救おうと、医師に頼み込んで、高価なストレプトマイシンを何本も投与し続けました。約3年後にタツ子さんは治癒しますが、この治療費は莫大なものとなりました。タメヨさんたち関根家は、経済的に最大の危機に瀕しました。
農協に借金を申し込みましたが、収入の低さを理由に断られました。種モミを借りることすらできませんでした。タメヨさんは正行さんと共に、もとの
「今の時代は、みんなが今日という日を生き抜くのに必死なんだ。人を憎むなんて、おかしい」
タメヨさんの考える通り、終戦直後の止別は、どこの集落も貧しく、毎晩のように寄合が開かれました。長男の正行さんは、亡き貞三郎さんの跡継ぎとはいえ、まだ18歳、未成年です。荷が重いと感じたタメヨさんは、自ら寄合に出向き、村の男たちと渡り合っていました。
子供といえば、タメヨさんは9人の子供たちを育てるにあたって「常に9人平等に」と考えていました。たとえば、父の忠助さんが慶事や法事の土産に
度重なる不幸に、子供たちが先行きを不安がることもありましたが、タメヨさんは子供たちの前では、努めて明るく振る舞っていました。農作業の帰り道では、子供たちと共に、当時の流行歌『リンゴの唄』『東京の花売娘』などをよく口ずさんでいました。
「私まで暗く落ち込んでいては、子供たちに悪い影響が出る。明るく振る舞わなければならない」
終戦直後のあるとき。タメヨさんの次男の建二さんが、冬のオホーツク海へ訪れるアザラシを友達と狩りに行くと言い出しました。タメヨさんは「何日もかけてここまでやって来るアザラシを殺す必要があるの?」と激しく叱りつけ、建二さんを戒めました。
また、川へ産卵に遡るサケを密漁者が獲ろうとしたときには、タメヨさんは「川で卵を産んで死ぬ運命のサケを面白半分で殺していいの!?」と、厳しく説教しました。
タメヨさんは生来、生物に愛情を注ぐ性格でした。歳を経るに従い、次第に自然への慈しみが深まっていったのです。この自然に対する心情は、後の自然保護運動へと結実していきます。