執筆記

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「人間って、おもしろい」 人物伝 (3) 戦火に散った若き命・森稔 (前編)

初っ端からネタバレしますと、今回は太平洋戦争の戦死者の話です。

これを「おもしろい」と題するのは不謹慎と言われそうですが、もちろん戦死のことをゲラゲラ笑って滑稽に感じたわけではありません。この人物に非常に興味をもったのです。 辞書では「おもしろい」は「興味深い」との意味もあります。正直申しまして改題も検討しましたが、敢えて「おもしろい」で通させていただきます。

 


 

太平洋戦争も日本の敗戦濃厚となった戦争末期。旧日本軍で起死回生、状況打破として考案された作戦の一つに、神風特別攻撃隊に代表されるであろう「特別攻撃隊 (特攻)」があります。

軍人や役人はいうにおよばず、民家の一般人までが戦争を賛美し、戦争反対などと誰1人言わなかった時代……とはいえ、死ぬことが義務だった特攻隊員の心情とは、どんなものだったのでしょうか。その特攻隊員の中に、20歳に満たない少年がいました。

 

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(みのる)さん。

 

1926年(大正15年)5月18日、北海道赤平村(現・赤平町)で、町の名士の次男(※)として生まれました。学生時代は学業に励み、体格にも恵まれ、スポーツ万能でした。その上に性格は裏表が無く、天真爛漫で、皆に好かれました。

 

1937年(昭和12年)、日中戦争が始まりました。当時の少年雑誌には、空を舞う戦闘機や、それらを駆る兵士たちが、勇敢な姿として描かれていました。少年たちにとって戦闘機のパイロットはまさにヒーローといえ、みんなが憧れを抱いていました。森さんもまた、その1人でした。

「俺は戦闘機乗りになると決めた! そして空の上から、皆を守るんだ!」

 

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(1939年(昭和14年)、中学入学当時の森さん。まだ純真に戦闘機乗りに憧れていた頃)


1941年(昭和16年)、時代は太平洋戦争へ突入しました。近所の男子たちが次々に召集され、出征してゆきました。後には女、子供、老人が残るばかりでした。森さんにとって、軍に入ることはかつての夢でしたが、次第に現実味を帯びてきました。

「みんな、家族を置いて戦争に行かなければならないんだ…… 俺があの人たちに代ってやれたら、どんなにいいだろう」

 

1943年(昭和18年)。森さんは海軍の甲種飛行予科練習生、通称「予科連」を受験しました。これは海軍創設による航空兵養成機関で、いわば航空兵への最短コースです。

海軍飛行予科練習生 - Wikipedia

森さんは見事、予科練に合格しました。合格を決めた日、学校からの帰りの汽車内で、下級生を呼び止めて言いました。

「お前、鞄を持っていないんだろう? 俺はもう要らないから、やるよ」

帰宅時には、森さんは鞄を持って自宅を発ったはずが、教科書やノートを紐で縛って肩から提げており、母を驚かせました。

「稔。あなた、鞄はどこへやったの?」

「俺はもう要らないから、鞄の無い奴にあげて来た」

隣人愛にあふれ、困っている人を見捨ててはおけない。それが彼の性格でした。

 

この予科練時代に、休暇がありました。森さんは赤平の叔父さんのもとを訪ね、こんな会話を交わしたそうです。

「稔。お前は何年くらいで少尉になれるんだ?」

「叔父さん、少尉なんてなれませんよ。俺はいずれ死ぬんですから。今は、その死ぬ方法を練っているんです」


やがて戦争は激しさを増し、日本は物資不足に喘ぎました。予科練も例外ではなく、飛行機や燃料の不足から練習にも事欠きました。そのため、2年4か月で訓練を終える予定が、その約3分の1、たった9か月で繰り上げ卒業が決定しました。

 

卒業間近の1944年(昭和19年)。予科練で、新兵器への搭乗者の募集がありました。

戦況打破、敵軍撃破のために開発された新兵器への搭乗者の募集。

ただし、生還を考慮せず開発された兵器のため、熟考の上で応募せよ──

「敵軍の本土上陸を阻むためなら、どんなことでもやってみせる!」

森さんは、迷わず応募しました。このとき応募者は、全体の90パーセント以上だったといいます。

 

予科練を卒業した森さんたちは、瀬戸内海の大津島の基地へ配属されました。

この基地で森さんたちへ、その新兵器が初めて公開されました。

回天(かいてん) - Wikipedia

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(画像はウィキメディア・コモンズより)

当時の魚雷は命中率が低かったため、有人に改造した魚雷に兵士が乗り込んで直接操縦し、兵もろとも敵機に体当たりする人間魚雷です。破壊力は、戦艦を撃沈するのに十分でしたが、搭乗する兵士はもちろん、撃沈と共に命を落とします。

森さんたちは改めて、出撃すれば本当に、絶対に生還不可能と知らされました。

上官からは「辞退者は責任をもって原隊に帰す」と言われましたが、森さんを含め、辞退者は皆無と伝えられています。

 

森さんたちは大津島で、回天の操縦の練習に励みました。操縦は困難を極めました。海中に入ったが最後、視界はゼロであり、傾斜計で角度を、砂時計で距離と時間を測るのみでした。

「敵の上陸を阻むため、大勢の人々の命を守るためだ。何としても、この困難を乗り越えてみせる!」

森さんはその頭脳と恵まれた体力で、操縦訓練をこなしてゆきました。

 

この年、森さんに命令が下りました。幸か不幸か、鍛え抜かれた抜群の操縦技術により、予科練からの初陣として選抜され、同1944年12月に出撃するよう、命令が下ったのです。

 

その後のある日、基地で演芸会がありました。森さんは滑稽な歌と踊りで、皆を爆笑させました。すでに特攻の命令を受けていながら、明るく振る舞う森さん── 基地内で親友となった三枝 (まこと)さんは、彼の度胸に驚いたといいます。

 

(後編に続く)

 

(※次男ではなく三男との説もあります)