(①より続く)
北海道の奥地、
せっかくの作物をシカやキタキツネに食い荒らされたり、ヒグマやエゾオオカミに怯える日も多くありました。冬季は気温が零下20度以下まで下がり、呼吸だけで喉が痛くなりました。
生活は苦しく、普段の食事では麦飯すら満足に食べられませんでした。主食はもっぱら、ソバ殻かイモ団子。それすら、1日3回食べることができませんでした。
タメヨさんにとって、一番の大仕事は水汲みでした。井戸を掘ろうにも、土地がそれに適さなかったのです。冬なら雪を溶かせば水ができますが、夏季には約2キロメートル歩き、川まで水を汲みに行きました。時には帰りが夕暮れになることもありました。道に迷いそうなとき、常に北天の中央に輝いている1つの星を見上げ、方角を確かめながら歩きました。
(画像はウィキメディア・コモンズより)
「お父っつぁ。あの星は、何ていうの?」
「あれはな、北極星というんだ」
父の忠助さんは北極星のことを知っていたように、博打好きながらも、祖父が寺小屋に勤めていた影響で、学問好きでもありました。「これからは女も勉強すべき」と、タメヨさんに盛んに勉強を勧めました。
その影響で、タメヨさんもまた勉強好きとなりました。
忠助さんはタメヨさんを進学させたいと考えましたが、蒼瑁村に高等科は無く、その夢は叶いませんでした。高等科併設は惜しくも、タメヨさん卒業のわずか2年後でした。
1922年(大正11年)7月、当時の皇太子様(後の昭和天皇)が、開拓状況の視察で北海道を一巡されました。当時18歳のタメヨさんは蒼瑁村代表として、皇太子様歓迎の一団に加わりました。村代表という名誉に、忠助さんは飼っていたヒツジを売りとばして反物を買い、母のソメさんが2日がかりで着物を縫い上げ、タメヨさんはその着物で着飾って、皇太子様歓迎に臨みました。
歓迎当日の7月17日は、あいにくの大雨でした。皇太子様は、ずぶぬれになった歓迎団を見て「傘を与えよ」と言われたそうです。タメヨさんは帰宅後、言いました。
「みんなが傘をさしていたので、皇太子様の姿は全然見えなかった。見えるのは人の頭と傘ばっかり。頭と傘を見に行ったようなもんだ」
それにもましてタメヨさんは、両親が精魂込めて用意してくれたせっかくの着物を、大雨で汚してしまったことを悔いました。
( ③へ続く)