執筆記

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「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑥

(⑤より続く) ※都合により本日は⑤⑥同時掲載です

 

タメヨさんの夫の貞三郎(ていざぶろう)さんは、婿養子の立場上、関根家では常に遠慮して振る舞いました。ビールが大好物でしたが、結婚後は決して飲みませんでした。そんな貞三郎さんのために、タメヨさんが内緒でビール瓶を部屋に持ち込むこともありました。

 

関根家の止別(やむべつ)への移住は戦争のためでしたが、村の方針で計画通り進められました。終戦の翌年の1946年(昭和21年)夏、関根家は35年かけて開拓に成功した蒼瑁(そうまい)の地を明け渡し、一家揃って止別へ移住しました。

 

この1946年の末。貞三郎さんはさかんに咳こむようになり、やがて微熱も出ました。タメヨさんは心配しましたが、貞三郎さんはやはり遠慮から「風邪をこじらせただけ」と言うばかりでした。

翌1947年(昭和22年)。一向に咳の収まらない貞三郎さんに、タメヨさんは病院での診察を強く勧めました。診断の結果は「肺結核の疑い」。タメヨさんは大病院での診察や入院を勧めましたが、貞三郎さんは家計を心配し、それを断りました。家族への感染を防ぐため、病院の近くの空き家に1人で住み、そこから通院することにしました。

タメヨさんは貞三郎さんに、治療に専念して安静にするよう言いました。

「仕事なんて心配しないで。安静が一番大事だから、しっかり休んで」

しかし貞三郎さんは男手が減ることを心配し、タメヨさんや家族たちの制止も、医師の反対も振り切り、農作業を手伝いました。そして仕事が終わると1人、空き家へ帰って行く日々でした。タメヨさんはその姿を、涙を流して見送るしかありませんでした。

 

秋のある日。いつも遠慮がちな貞三郎さんが、珍しく「イカの刺身が食べたい」と言い出しました。タメヨさんは季節外れのイカを求め、バスと汽車を1時間以上乗り継ぎ、足を棒にして歩き回り、買い求めました。貞三郎さんは笑顔でイカの刺身を食べました。

 

それきり、貞三郎さんの食欲はどんどん落ちて、病状は悪化の一途を辿りました。当時、結核は不治の病も同然。タメヨさんはせめて最期は自宅で迎えさせたいと、父の忠助さんに頼んで、自宅に隔離部屋を作ってもらい、貞三郎さんを住まわせました。

「コイの生き血が薬になる」「青ガエルが結核に効く」素人療法を耳にするたび、タメヨさんはすでに冬だというのに、冬眠中のコイやカエルを捜して奔走しました。

 

1948年(昭和23年)3月13日。貞三郎さんは亡くなられました。洗面器は吐血であふれ返っていました。3月13日── 奇しくも、命日は24回目の結婚記念日でした。

この年の春、四男で末っ子の郁雄さんが小学校に入学予定でした。貞三郎さんは「9人全員が小学校に入れば、親として一応の責任がとれる」と言っていましたが、全員の小学校入りの、ほんの半月前の最期でした。

 

貞三郎さんの体を蝕んだのは、「止別を開拓しなければ婿養子としての面子に関る」との想いによる、過酷な労働でした。土壌に恵まれた蒼瑁に比べて、止別はずっと痩せ細った土地だったのです。そして止別への移転は、戦争のため。タメヨさんの戦争への憎しみは、一層激しくなりました。

皮肉なことに、この1948年、結核の特効薬であるストレプトマイシンが日本に輸入されました。もっともストレプトマイシンは当時、1本分の値段が関根家の収入半月分に値するほど高価な上、治療には何本も必要でしたから、どのみち、この薬による貞三郎さんの治療は困難でした。金持ちが生き延び、貧乏人が死ぬ。そんな世を、タメヨさんは嘆きました。

 

しかし、貞三郎さんの死を悲しんでも、戦争を憎んでも、貧乏を怨んでも、それで暮しが楽になるわけではありません。タメヨさんは悲しみ、怒り、怨みのすべてを力に変え、ひたすら開拓に打ち込み続けました。 

 

あるときタメヨさんは、幼いときから自分の道しるべとなった北極星を指して、こう言いました。

「この北海道にわたったときから、私の運命は決まっていた。人間は、もって生まれた運命に抗うことはできない。その運命に身を任せるしかない」

「私の頭上にはいつも、あの星が輝いていた。嬉しいときは一緒に喜び、悲しいときは慰めてくれた。あの星は私に、生きる勇気とロマンを与えてくれた」

 

(⑦へ続く)