1941年(昭和16年)。時代は太平洋戦争へ突入しました。タメヨさんたち関根家は、軍用機の飛行場の拡張のために、立ち退きを命じられました。
「嫌だ! ずっと苦労して、やっとここまで切り拓いてきたんだ! この土地は絶対に手放さない!」
タメヨさんはそう言って泣きましたが、当時の軍の命令は絶対です。父の忠助さんも議員という立場ですから、命令に抗うことはできませんでした。
この頃、子供たちも学校では授業どころではなく、グラウンドで育てた農作物を軍に送る日々でした。金属類は兵器の材料といって、アルミニウム製の弁当箱まで没収されました。
「こんな戦争、負けるとわかっている。飛行場なんて、無駄に決まっている」
1944年(昭和19年)、
それは忠三さんが、悪戯し放題の悪童のためでもありました。近所の子供との相撲ごっこで投げ飛ばされるや、「あいつをぶっ殺す」と、家からナタを持ち出そうとしたほどです。タメヨさんは、忠三さんと他の兄弟たちの同居は良くないと考え、一時的に別居させたのです。
忠助さんは酒好きでしたので、よく密造のどぶろくを呑み、孫の忠三さんに酌をさせました。ある日、忠助さんとソメさんが畑仕事から帰ると、忠三さんが倒れていました。忠助さんの酌をする内に酒の香りに惹かれ、どぶろくを盗み飲みしての急性アルコール中毒でした。
忠三さんが一命を取り留めた後、タメヨさんは両親を激しく叱りました。
「2人がついていながら、忠三を死なせるところだったなんて!」
とは言え、忠三さんを両親に預けたのは、当のタメヨさん自身です。タメヨさんは生涯、自分が息子の命を危うくさせたと、負い目に感じていました。
この頃すでに、小清水では空襲で2人の死者が出ていました。忠三さんの命の危機も、間接的には転居の理由である、軍の飛行場拡張のためといえます。戦争の余波は確実に、タメヨさんたちのもとへ及んでいました。
この飛行場拡張は、タメヨさんの三女のサダ子さんの命まで脅かしました。拡張工事の工場で腸チフスが発生し、サダ子さんが感染したのです。サダ子さんはまだ小学6年生、体力にも乏しく、命の危機に瀕しました。
戦時中の病院は患者たちで一杯で、入院など無理です。タメヨさんは医学書を必死に読み、家族への感染を防ぐために、自宅に隔離部屋を作って療養の場所とし、食事を重湯と半熟卵だけにし、熱心に看病しました。約3か月後、サダ子さんはガリガリに痩せ細りながらも、病魔から解放されました。
1945年(昭和20年)、終戦…… 長男の正行さんは「アメリカ兵を皆殺しにする」と家を飛び出そうとし、慌てた家族たちに制止されました。
家族たち皆が動転する中、ただ1人、敗戦を確信していたタメヨさんは、冷静に言いました。
「若い人たちが大勢、犠牲になった…… 終わってくれて良かった」
この1945年、日本の戦後改革に伴い、女性の参政権が認められました。かつて政治家を夢見たタメヨさんにとって待望の時代ですが、当時のタメヨさんはすでに、仕事や子育てに追われる身。政治家はもはや、過去の夢でした。後年、タメヨさんは自嘲気味に話しています。
「開拓民に政治家など無理だった」