高度経済成長を経て、時代は流れていきました。タメヨさんたちの命がけの開墾も、次第に人々の記憶から消え、過去の出来事となっていきました。
1970年代後半頃より、タメヨさんの関心は、観光ブームや開発と言っては破壊される日本の自然、自然破壊へと移って行きました。
「私たちもかつて自然を切り開いたが、それは生きるために必要だったからだ。必要の無い建物や道路を造るために自然を切り開くこと、それは自然の摂理に反するのではないだろうか?」
1977年(昭和52年)、ナショナルトラスト運動「しれとこ100平方メートル運動」が展開されました。日本全国から寄付を募り、
当時の
1981年(昭和56年)。小清水の大自然を守り、自然と人間との共存を目標とした「オホーツクの村」が誕生しました。このときもタメヨさんは率先して、運動の参加者の1人となりました。
かつてタメヨさんたちが踏み入れた北海道の地には、アイヌが先住しており、タメヨさんも幼い日々にアイヌの少女と親交がありました。しかしアイヌは和人との共存に失敗し、移住せざるを得ませんでした。
「アイヌの残した自然を守ること。それがせめてもの恩返しであり、感謝の証であり、私たちの責任だ」
アイヌ民族の1人にしてアイヌ研究者でもある
1994年(平成6年)9月。皇太子様ご夫妻が知床を訪れ、
この登山によって、知床の名が環境庁など関係機関に広まり、知床が世界遺産となる切っ掛けの一つになったともいわれています。
この1990年代から2000年代にかけ、タメヨさんの郷里の福島では福島空港が開港し、「うつくしま未来博」が開催されました。
空港開港時は「高速道路や新幹線が整備されている福島に空港が必要か?」との疑問の声が上がりましたし、未来博の跡地は分譲地として再利用されるはずが、ずっと手つかずの状態でした。タメヨさんは郷里の地が必要以上に開発の手で削られることに、疑問を抱くばかりでした。
タメヨさんは1972年(昭和47年)に長男の正行さん夫妻と、1984年(昭和59年)には三女のサダ子さんと共に、福島の
長年にわたって自然と共に生きてきただけに、開発によってその自然が破壊されてゆくことを危惧しつつ、タメヨさんは晩年を迎えてゆきます。