執筆記

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「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑨

(⑧より続く) ※都合により本日も⑧⑨同時掲載、11月19日(月)は休載予定です

タメヨさんの父の忠助さんが急逝した同1952年(昭和27年)。タメヨさんの長女の光子さんが、国鉄職員とお見合いで結婚しました。次いで次女のタツ子さんが結婚。三女のサダ子さんもお見合いで結婚に至りました。1958年(昭和33年)5月、正行さんが結婚しました。

タツ子さんのご主人は小学校教師でしたが、結婚の数年後に退職して家業を継ぎ、同時にタツ子さんと共に創価学会へ入信しました。当時の創価学会への批判は現在以上のものでしたから、タツ子さんたちは周囲から、そして兄弟たちからも非難されました。しかしタメヨさんは、タツ子さんを批難するどころか、他の兄弟たちを戒めました。

「日本の憲法で信仰の自由は保障されている。何も恥じることはない」

タメヨさんはタツ子さんだけでなく、子供たちみんなの進路に、常に寛容でした。

「うちは根っからの貧乏。何事も努力してつかみ取るしかない。ただ、世間に疎まれること、後ろ指を指されることだけはしてはいけない。そのようなことをしたら、親子の縁を切る」

 

自分の子供を決して不幸にしまいと思ったのでしょう。四女の孝子さんが結婚後に貧乏生活を強いられ、「何々が無くて困っている」と漏らすと、タメヨさんは自分がどんなに貧乏でも、必ずその品物を送りました。

 

次男の建二さんは、苦学しながらも札幌へ出て働き始めました。関根家では忠助さんと建二さんだけが、喫煙の習慣がありました。タメヨさんは、3か月に1度は必ず建二さんに手紙を書き、息子の身を常に案じ、特にタバコの吸い過ぎに気を付けるよう書いていました。もっともタメヨさんはそう言いつつも、建二さんがたまに帰省すると、わざわざ繁華街まで出かけてタバコを買い、内緒で建二さんに贈っていました。

 

長男の正行さんの長女、タメヨさんの孫娘である由香さんは、中学校卒業まで、登校前には必ずタメヨさんが髪を編んでくれました。バス通学が始まると、タメヨさんは由香さんの帰りを心配し、毎晩のようにバス停留所で帰りを待ちました。病気で入院すれば、タメヨさんは何週間も寝ずの看病を続けました。孫を可愛がる優しいお婆ちゃんでもありました。

 

タメヨさんが喜寿を迎えた頃、最後に末っ子の郁雄さんが結婚。9人の子供たち全員が結婚しました。

 

おめでたい結婚話の反面、1965年(昭和40年)には、母のソメさんが他界という悲報もありました。自分の信念を貫くタメヨさんに対し、細やかな愛情の持ち主だったソメさんは、タメヨさんの子育ても常に支えていました。そのソメさんの死は、タメヨさんによって大きな打撃でした。

 

(⑩へ続く)