執筆記

ウィキペディア利用者:逃亡者です。基本的にウィキペディア執筆に関しての日記です。そのうち気まぐれで関係ないことも書くかもしれません。

伯父との別れ

1月7日 (火)

 

夜、母から電話で、札幌の伯父(父の兄)の他界の報せを受ける。

親戚としての付き合いはもとより、学生時代より保証人になっていただくなど、散々世話になっていた人物であり、以前から母より「伯父さんのときはあなたも帰って来た方がいい」と言われていた。

しかし、高い飛行機代を用いての年末年始の帰省を終えたばかりであり、「無理はしないで、弔電だけでいいから」と言われる。弔電だけでいいのだろうか。

 

思えば、8年前の1月に父が他界。その葬儀で伯父は、自分も弟が死んで悲しいであろうにも関らず、横浜から多忙の中で小樽へ飛んできた僕の体調のことなど、ずっと気遣ってくれた。

その伯父のために、このままで良いのだろうか。

通夜は10日、もう3日後…… 悶々と考えつつ、ひとまず寝床につく。

 

1月8日 (水)

 

8年前の1月、新横浜での仕事中に兄から「父危篤」の報せを受け、「後悔しないようにしよう」と言われ、父を看取れないと絶対に後悔すると思い、小樽に飛んで帰ったことを思い出す(お陰で最期は一家揃って看取ることができた)。

父の葬儀は、伯父一家(伯父夫妻+従兄2人)が来てくれた。特に義伯母(伯父の奥様)は、体の具合がよろしくなかったにも関らず。そしてその義伯母が4年前に他界したときは、僕は弔電だけで済ませたことを、今でも悔やむ。

伯父が一昨年に老人ホームに入居し、結局は一度も逢いに行けなかったことも悔やまれる。昨年末の帰省時、家族で「そろそろ皆で行かないとね」と言っていたのに。

弔電だけなら、金は遥かに安く済む。家族も従兄たちも「横浜から札幌まで駆けつけることは困難」と、きっと理解してくれる、それは頭ではわかっている。でも、気持ちはどうしようもない。後悔したくない。

僕「飛行機、とった」

母「大丈夫なの?」

僕「なんとかなる。みんなで一緒に行こう」

 

1月10日 (金)

 

実家には父の四十九日や一周忌で着た喪服があるが、サイズが心配で、黒に見えなくもないダークグレーの仕事着の背広を着、出発する。朝の飛行機で羽田を発ち、新千歳空港に着き、電車に乗り換える。

新千歳空港・小樽間の快速電車「快速エアポート」は、最近ほとんどロングシートだが、珍しくクロスシートであり、石狩湾の海を眺めながら小樽を目指す。めちゃくちゃ良い天気で、空と海、青のコントラストが美しい。

父は9年前の秋から入院しており、僕が年末年始の帰省で病院を見舞ったときには、すでに意識が無かった。思いきり滅入った気持ちで病院を出たとき、こんなふうにめちゃくちゃ青い空であった。気持ちが最悪なのに、なぜ空はあんなに綺麗だったのだろう。その意味するところを探し続けているが、今でもなおわからない。そして今日もなぜこんな青い空なのか。きっとその意味を、また捜し続ける。

 

昼頃に小樽に到着。母の手料理で昼食を済ませ、着替えなど葬儀の荷物をまとめる。実家の喪服は、やはりウェスト回りがきつい。起立状態なら着れなくもないが、座るときつい。時間の流れは残酷だ。結局は着て来た背広に、実家に置きっぱなしの黒ネクタイをしめる。

午後に兄一家が車で迎えに来る(兄夫婦+甥、母と同じ市内だが仕事の都合で別居)。兄の運転で、共に札幌の斎場を目指す。

 

斎場に到着し、従兄たちに迎えられる。

伯父は北海道の寒さの中で風邪をひき、こじらせ、肺炎での急な最期だったという。従兄らは意外に、落ち着いた様子であった。急なことで現実を受け止めきれないのだろうか。まぁ、四捨五入すれば還暦に手の届く従兄らであり、伯父も今年で米寿であったから案外、覚悟を決めていたのかもしれない。

 

通夜の後、通夜振る舞いの酒と話が、夜遅くまで続く。無口な僕は、久しぶりに逢う従兄たちと夜通しの会話が続くか心配であったが、従兄の奥様が非常に話し好きのために杞憂に終わり、話は尽きることが無い。

兄か兄嫁か忘れたが、僕のことを「明日が誕生日」と漏らしたため、午前0時を回ったところで従兄らが「たった今、誕生日を迎えましたー!」と発声、親戚らのハッピーバースデーの合唱となる。

思えば8年前の僕の誕生日は、よりにもよって父の命日の前日であり、誕生日前夜から家族揃って入院先の病院に詰めており、そのまま誕生日を迎えた。僕が「人生最悪の誕生日だ」と漏らしたところ、甥が「でも、みんなで一緒にいれたよー」と言ってくれたものだ(当の甥本人は憶えていなかった)。従兄の奥様が「今年なんて、親戚みんないるよ」。まさにそうだ。悲しい席だけど、嬉しい。

 

その後も伯父の亡骸を前に、伯父と父の兄弟の生前の失敗談などネタにして話を続け、遅くまで飲みながら笑い合う。思えば伯父は酒の席など、賑やかな場が大好きな人物であった。久しぶりに自分の子供たちと僕らが笑い合う様子を見て、喜んでくれたろうか。心の中で伯父に呟く。

「伯父さん。みんな、笑ってるよ」

 

1月11日 (土)

 

朝方に、従兄や奥様から「ともちゃんは酒は何が好き?」と何度か聞かれる(ともちゃん = 僕)。「?」と思っていたが、思いがけず誕生日プレゼントにシャンパンを頂く。告別式準備で忙しいだろうに、いつの間に買ってくださったか。誕生日などと言って却って申し訳なかった。ありがたく頂く。

 

告別式、そして出棺。もう伯父の顔は見れないかと思うと、やはり涙が止まらない。

棺桶に、祖母(伯父と父の母)の写真も入れられる。聞けば伯父は昨年には認知症が始まり、老人ホームに従兄らが顔を見せにいったとき「爺ちゃん婆ちゃん(=自分の両親)を呼んで来い」と言い出し、従兄らが「もう死んだろう」と言うと「何言ってるんだ、そんな馬鹿なことがあるか」と怒ったかと思えば、しまいには子供のように「爺ちゃん婆ちゃんに逢いたい、逢いたい」と繰り返していたので、せめて写真を添えたそうだ。切ない。

従兄兄弟の長男が、喪主として謝辞を述べる。少々涙混じりながら、さすが一家の長兄だけあり堂々としたものだった。むしろ僕の方が喪主より泣いており、皆が引いていたかもしれない。従兄の奥様から「ともちゃんはいつも泣き虫だから」とからかわれる。父のときもそうだったな。

斎場の去り際、従兄の奥様に「今度はおめでたい席で逢おうね」と言われる。独身の僕に言わんとする、その意味はわかる。期待に容易に応えられないことが辛い。

 

兄の車で帰宅し、母の実家まで送ってもらう。父は雪模様ですげぇ寒かったが、今回は好天続きであった。冬場の葬儀は降雪や、雪道での兄の運転が心配であったが、この冬の北海道は雪が少なく、路面凍結も無いことも幸運であった。

夜、母と共に引出物の折詰を食べながら、ビールを飲む。

僕「不謹慎な言い方かもしれないけど、楽しかった」

母「お葬式って本当は、そういうもんだよ。みんなで楽しくやっていれば、亡くなった人は喜んでくれるの」

楽しかった。

本当に良い葬儀であった。

優柔不断な性格の僕はいつも迷い、何かにつけて「あのとき、あぁすれば良かった」と悔やむ。しかし今回のように、自分の行動に満足することは滅多に無い。

間違いなく、来て良かった。

 

1月12日(日)

 

父の命日。母と共に、近所の寺の納骨堂へお参りに行く。

母「お父さん。お義兄さんも、そっちに行っちゃったよ」

冬場のこの寺は、木造りの床が冷たい。心の底まで冷え込む。

 

1月13日(月・祝)

 

横浜へ帰還。引出物の菓子などを抱えて、小樽を発つ。

鞄のポケットには、火葬場で伯父と共に焼いた硬貨。父の結婚指輪に続き、お守りがまた一つ増えた。

 

小樽を発った快速エアポートは、またしてもクロスシートだ。石狩湾の海と空を眺めつつ、新千歳空港を目指す。

この空の向こうで、今ごろ伯父は、長年連れ添った義伯母に逢えたろうか。

逢いたかった祖父母にも逢っているだろうか。

父には「弟のくせに、兄貴の俺より先に逝きやがって」と叱ってるに違いない。

 

明日からは社会復帰し、また本業で多忙な日々が待つ。

生きている者は、いつまでも悲しまず、生きている者の務めとして精一杯、今を生きていくしかない。

 

以前、仕事で大失敗したとき、僕は口にした。

「あぁ、死にたい。いや、こんな体たらくで死んだら、あの世に行って父さんに合わす顔が無い」

あの世で叱られる相手が、もう1人増えた。

父の分も、伯父の分も、生きる。

 

※ 帰郷決断時の母への言葉と、通夜振舞で伯父への言葉は、この時期の小樽で再放送していたドラマ『ゲゲゲの女房』を思い出し、こちらこちらを真似て喋りました(アニメの次はドラマのパクリかよ……)