執筆記

ウィキペディア利用者:逃亡者です。基本的にウィキペディア執筆に関しての日記です。そのうち気まぐれで関係ないことも書くかもしれません。

勝手に棚から一掴み (2) 『猛女とよばれた淑女』

2019年およびウィキペディア20周年の「棚から一掴み」、さらに「勝手に棚から一掴み」初回は、僕が過去に書いたウィキペディア記事での参考文献から選びましたが、今回は敢えて、既存記事でまったく触れていない本を持ち出したいと思います。

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主人公は齋藤輝子さん。歌人齋藤茂吉氏の奥様、斎藤茂太北杜夫両氏のお母様。著者はお孫さんの斎藤由香さんです。

 

コトバンクによれば、齋藤輝子さんの肩書は「旅行家」であり、「79歳で南極にでかけ」とありますが、この本にもそのエピソードが載っています。

若く体力あふれる旅行家と異なり、輝子さんは還暦近くから旅行に目覚めたというものの、70歳代後半には「行ったことがないのはチベットブータンと南極くらい」というほど、世界中を飛び回っていました。エベレスト登山にも挑んだほどです。

南極については、輝子さんは関係者から旅行を進められたものの、旅行好きにとって致命的な弱点「船酔い」の持ち主であったため、南極行きを断念していました。ところが旅仲間である森繁久彌夫人が南極へ行ったと聞き、負けず嫌いの性格から、実に79歳の高齢にして、南極行きを決意しました。

 政府高官が南極の昭和基地へ行くと聞き、「私も連れて行って」と自ら直接高官に申し入れたものの「女性用の設備が無い」と断られました。なおもあきらめずに、南極ツアーを申し込み、船酔いのサポートに息子どちらかを同行させるつもりで、息子たちの都合を聞くまでもなく、2人分を独断で申し込みました。

しかし息子の茂太氏は多忙と体調不良、北杜夫氏も鬱病の悪化で、南極行きなど到底無理。輝子さんはそれでも行きたくて、ツアー料金171万円で2人分を申し込んだところを、シングルユースの追加料金で50万円を支払うはめになりました。

さらに高齢者は、南極行きには健康診断が必須でした。輝子さんは79歳にして、生涯初めての健康診断を受けました。その結果は診断項目の大半が「要注意」、特に「高血圧のため寒い場所は厳禁」。常識的に考えて、南極などとんでもない話です。

さて、輝子さんは南極行きを断念したのでしょうか? 行くとしても、診断結果の問題をどう乗り越えたのでしょうか?

 

コトバンクでは「快妻オバサマと呼ばれた」とあるように、何かと破天荒なイメージがあり、さらに地元では「茂吉を苦しめた悪妻」などとも呼ばれたそう。確かに本書にはそうしたエピソードも満載ですが、決してそればかりではないと考えています。

たとえば、晩年に輝子さんが入院し、病状の悪化で、食事も固形物を受けつけなくなった頃、急に「言間団子が食べたい」と言い出しました。家族が慌てて団子を買ってきて、輝子さんは小さく切った団子を嬉しそうに食べました。これが輝子さんの最期の食事でした。なぜ、それが言間団子だったか?

入院中は、お孫さんの由香さんへ、その名にちなんで「退院したらメキシコのユカタン半島へ行きましょう」などと優しく言っており、由香さんも回復を信じていました。しかし輝子さんは、退院することなく死去。由香さんが翌年に箱根の別荘を訪れると、ゲストブックに輝子さんの直筆で、死期を悟っていたとみられるメッセージが遺されていました。由香さんはそれを読んで「泣きに泣いた」といい、読んだ僕も泣けました。何と書いてあったか? これはぜひ、実際にお読みいただきたく思います。

 

実はだいぶ以前に、某所で「齋藤輝子さんのことを記事に書きたい」と申しており、恐らくこの書は最も詳細と思われる文献の一つですが、この書による記事化は躊躇しています。理由は、まず著者が「身内」であり、第三者視点とはいいがたく、おそらくは私情が入っているであろうこと。そして著者の前置きとして「小学校から大学まで日記をつけており、祖母のことも詳しく書いていた」「会社員として就職したとき、もう役に立たないと思って、その日記を全部ゴミに出した」「まさか自分が物書きになるとは思わなかった」「本書は記憶に頼って書いた」(要約)とのこと。信頼できる情報源と見なすのは困難かなぁ、というのが正直な印象です。

 とはいえ、純粋に読み物として楽しむ分には、かなりお勧めの1冊です。