2011年(平成23年)3月11日。
言うまでも無く東日本大震災では、甚大な被害が出ました。その一方では、多くの方々が活躍していました。その中の、知られざる功労者の男性がいらっしゃいます。
佐々木 五十美(ささき いそみ)さん、当時67歳。
元は料理人であり、仙台を代表するホテルに、40年近く勤務しました。ホテル最上階の高級レストランの調理長を務めるなど、老舗の味を守り続けました。2004年(平成16年)に定年退職しましたが、その後も嘱託社員として、料理人として働き続けました。面倒見が良い性格で、皆に慕われていました。
震災当日もホテルのレストランで、専門学校の卒業パーティーの準備をしていました。大地震で天井が落ち、食器も滅茶苦茶になり、人生の大半を過ごした職場を失いながらも、どうにか生き延びました。自家用車の中で2日間を過ごした後、3日後に家族と再会。互いの無事を涙ながらに喜び合い、ひとまずは空港に避難しました。
当時は災害時とはいえ、人々の食事があまりに乏しく、皆の笑顔が失われていました。そこで佐々木さんは、「俺が皆を元気にする食事を作ってやる!」と立ち上がりました。ろくな調理器具などあるはずのない場所でしたが、幸いにも県外に勤める息子さんが、ガスボンベを送ってくれるという協力もありました。
佐々木さんのおかげで、皆は久しぶりに、暖かな食事にありつきました。父を津波で喪ってすっかり元気を失った女の子が、佐々木さんの料理を食べて「美味しい」と初めて笑顔を見せたという逸話もあります。
約2週間後の3月24日、佐々木さんたちは、体育館に設けられた避難所に移りました。佐々木さんたちが自治体に働きかけたことで、調理場などの整った避難所を確保することができました。
避難所では、佐々木さんはもちろん料理人としての腕をいかし、皆の食事作りに活躍しました。調理場があるとはいえ、大人数の食事を作るには不十分、また食材も限られていました。食材の種類と量を見ながらメニューを考えて、恵まれた環境だったホテル時代とは違う工夫を凝らしつつ、炊事担当の主婦たちを指導しました。また食事のみならず、元ホテルの重鎮ならではのリーダーシップで、避難所の皆を的確に役割分担しました。
見回りの警察官が見回りに来たり、復興ボランティアの手伝いに来ると、「ここに来た人は皆が家族」「さぁ、どうぞ」と、遠慮する彼らを快く食事の場に加えました。
やがて「料理人がいる避難所」の噂を聞きつけ、佐々木さんたちの避難所には、次第に食材が集まるようになりました。東北への支援物資の中には食材もありましたが、避難所によっては調理場が不十分であったり、調理できる人材がいなかったりで、食材が余剰になることがあったのです。佐々木さんはありがたく受け取りました。
本場のインドのカレーが届けば、辛すぎるカレーを味を日本人向けに調えたり、牛乳工場で無駄になってしまった牛乳が届けば、煮沸して飲めるようにしたり、食材も皆の好意も、無駄にしないように心がけました。
企業や学校の再開に伴って、避難所から出勤、登校する人も現れ始めました。佐々木さんは皆の昼食のため、午前0時を回っても弁当の仕込みをする日が続きました。
やがて避難所の人々が仮設住宅に移り始めると、皆の食生活を気遣い、食材を持たせて送り出しました。避難所の皆が転居先に落ち着くまで、佐々木さんは避難所の食と生活を支え続けました。
そして避難所全員の移転先が決定し、佐々木さんも避難所を去りました。その後も食事を通じて皆をもっと笑顔にするために、NHKの料理番組などで活躍を続けています。
参考文献)
国広あづさ. “避難者においしいものを!”. 震災記録マンガをよんで投こうしよう!. 進研ゼミ. (※閉鎖済み)
「3.11 東日本大震災 避難者の声 (PDF)」『広報いわぬま』819号、2011年6月、全国書誌番号 00084821。