ウィキペディアには「 独立記事作成の目安」というガイドラインがあります。簡単にいえば、書く対象が「百科事典に載せるに値するかどうか」です。人物でいえば、野口英世、福澤諭吉ら、紙幣になったほどの偉人は、文句なしに百科事典掲載対象でしょう。逆に、僕の自宅近所でいつもお世話になるクリーニング店の店員さんは、悪く言えば、ただのおばちゃんです。とても事典には載せられません(←極端すぎる例)。
そうした事情で、ウィキペディアでの執筆対象としては非常にグレー…… というより、むしろ無理、でも僕の大好きな人物たちを、これから不定期に、勝手に紹介していきたいと思います。果たしてこんなブログを、どの程度の方々がお読みか存じませんが……
僕がウィキペディアタウンなどのイベントで、人物記事を書く動機について「やっぱり人間が一番おもしろい」と口癖のように言ってしまうので、このタイトルをつけてみました。
北海道、富良野きっての観光名所、ラベンダー畑。どなたでも、少なくとも聞いたことくらいはあるでしょう。
(画像はウィキメディア・コモンズより)
しかし、ある無名の女性こそが、富良野ラベンダーの隠れた貢献者であり、この女性がいなければ、現在の富良野のラベンダーは決してありえないとの事実を、果たしてどのくらいの方々がご存じでしょうか。
1909年(明治42年)、現在の富良野市生まれ。旧姓は井上さん。
ユキさんは子供の頃より、お父様から「女は縁の下で家を支える存在であれ」と、厳しく躾けられました。その甲斐あってユキさんは、家事の知識をしっかりと身につけて育ちました。中でも裁縫、特に和裁を得意としていました。
1930年(昭和5年)、25歳のとき、入植農家の富田徳雄さんと結婚。1932年(昭和7年)に、長男の忠雄さんが誕生。徳雄さんが頑固者でしたので、ユキさんは、せめて自分だけは息子を自由にさせたいとの想いで、忠雄さんを愛情深く育てました。そんな母心のもと、忠雄さんは感受性と独創性を兼ね備えて育ちました。
1953年(昭和28年)。21歳となった忠雄さんは農業視察で、上富良野町のラベンダー畑に心を奪われ、新たな農業としてラベンダー栽培を思い立ちました。ところが昔気質の徳雄さんは「農家は食べ物を作る仕事だ! 女の化粧品の材料作りなど許さん!」と猛反対。ユキさんは父子の衝突に心を痛めながらも、忠雄さんが、昔ながらの農業とは違う新たな夢を見つけたと気づき、それを静かに見守ろうと決心しました。
1958年(昭和33年)、忠雄さんは26歳で結婚。所帯持ちとなったことで徳雄さんから一人前と認められ、やっとラベンダー栽培の許しを得ました。ユキさんは徳雄さんに遠慮しつつ、黙々と忠雄さんの仕事を手伝いました。そうした協力もあり、1970年(昭和45年)には、忠雄さんの畑のラベンダーは、ヨーロッパ産を上回るほどの上質となりました。富良野のラベンダー生産は、まさに頂点に達したと言えます。
しかし、この時期を境に危機が訪れます。急激な技術進歩で、安価な合成香料が登場。貿易自由化で、海外から安価な香料の輸入開始。富良野のラベンダーは、香料会社による買い上げ価格が下がる一方で、富良野は一気に窮地に追い込まれました。
1973年(昭和48年)、ついに香料会社が買い上げ中止。富良野ではラベンダー農家が次々に廃業し、忠雄さんは最後のラベンダー農家となりました。その忠雄さんも1975年(昭和50年)5月にとうとう、ラベンダー畑の処分を決心しました。
忠雄さんがトラクターで畑に乗り入れ、ラベンダーが切り刻まれ…… 数メートルのところで忠雄さんはトラクターを停め、大泣きし始めました。忠雄さんにとって、ラベンダーは愛娘も同然。それが切り刻まれる音は、あたかも娘の悲鳴のように聞こえたのです。
「このラベンダーを潰すなんて、俺にはできない。苦しいけど、もう1年だけ続けたい」
それまで忠雄さんをじっと見守るだけだったユキさんは、明治女ならではの気丈さで、こう言いました。
「戻るも地獄、進むも地獄なら、やりたいようにやりなさい。私は、あんたの信じる道を行く」
ユキさんにとって、息子の夢は、自分自身の夢でもあったのです。
この1975年。忠雄さんは最後の1年のつもりで、精一杯のラベンダーを育てました。その忠雄さんの想いに応えるように、ラベンダーはひときわ美しい花を咲かせました。
ユキさんは忠雄さんを助けたい一心で、稲作に力を注ぎ、米を売った金で家計を支えました。その助力の甲斐あり、翌1976年(昭和51年)も、忠雄さんは迷いつつ、生活できなくなるまでは努力してみようと、ラベンダー栽培に取り組みました。
この1976年に突如、忠雄さんの畑へ、カメラマンが次々に押し寄せ、花々を撮影し始めました。前年のラベンダー、あの美しく咲いた花々が、忠雄さん自身も知らない間に、旧国鉄の1976年のカレンダーに採用され、話題を呼んでいたのです。しかし依然、香料作物としてのラベンダー栽培が限界であることに、変わりはありませんでした。カメラマンたちは皆、栽培の継続を望みましたが、忠雄さんは本当に限界に達していたのです。この年、忠雄さんは今度こそ、最後のラベンダー作りのつもりでいました。
そんなある日のこと。旅行客らしき1人の年配女性が、ラベンダー畑を訪れました。その女性は、忠雄さんが畑を辞めようとしていると知るや、ユキさんにラベンダーの上手な活用方法を話しました。ラベンダーの本場であるフランスのプロヴァンスのこと、ラベンダーは乾燥させると香りが長持ちすること、プロヴァンスではサシエ(香り袋)が女性に喜ばれていること。この女性の素性や、なぜこんな知識を持っていたのかは、今なお不明です。
ユキさんはその日から、何かに取りつかれたかのように、早咲きのラベンダーを乾燥させ、サシエの製作に取り掛かりました。嫁入り前の躾が功を奏し、裁縫ならお手の物です。タンスにあった端切れを使い、千個以上のサシエが完成しました。
ユキさんは、畑を訪れるカメラマンたちへの土産として、惜しげもなくサシエを持たせました。これが思わぬことに、畑の名産品として噂を呼び始めました。
「おばあちゃん、記念品として買いたいです」「無料でもらうわけにはいきません」
「じゃあ、400円でいいかい?」
ユキさん手製のサシエは、売り物として作ったつもりでないにも関らず、爆発的な人気となりました。富田家はたちまち、即席の土産屋と化しました。サシエを皆が喜ぶ品物にしようと、デザインの工夫を凝らしました。カメラマンたちもその作業に加わり、カメラマンや観光客たちとの交流の輪が広がりました。
秋に入った頃、ユキさんはサシエの売上をすべて、忠雄さんに差し出しました。その額、約30万円。
「このお金を、何かの足しにしておくれ」
「それは母さんの儲けじゃないか。受け取れないよ。母さんが好きなことに使いなよ」
ユキさんは何も言わず、忠雄さんを見つめるだけです。
「……わかった。俺、ラベンダーを続けるよ。きっとこれからも苦労するけれど、また手伝ってほしい。母さん、よろしくお願いします!」
忠雄さんはユキさんの想いを受け止め、その後もラベンダー栽培を続けると決意しました。
そんな忠雄さんに、ユキさんは笑顔で応えました。
その後もラベンダー畑は、観光名所へと成長を続け、ドラマ『北の国から』の撮影などでも知られるようになりました。
畑がどんどん有名になる一方で、ユキさんは決して表舞台に出ず、忠雄さんを陰で支えることに徹しました。
1999年(平成11年)6月9日、ユキさんは満90歳で亡くなられました。その間際まで、畑に観光客が訪れると、ユキさんは「あなたたち、どこから来たの?」「そんな遠いところから、ありがとうね」と、優しい声で出迎えていたといいます。
北海道中富良野町で富田忠雄さんが営む農園「ファーム富田」では現在でも、「ラベンダーサシエ」が売られています。
値段は400円。ユキさんが決めた値段、そのままで。
参考文献)
富田忠雄『わたしのラベンダー物語』、新潮社〈新潮文庫〉、2002年6月1日(原著1993年)。ISBN 978-4-10-129731-6。
『ほっかいどう百年物語 北海道の歴史を刻んだ人々──。』第5集、STVラジオ編、中西出版、2004年12月27日。ISBN 978-4-89115-134-8。