執筆記

ウィキペディア利用者:逃亡者です。基本的にウィキペディア執筆に関しての日記です。そのうち気まぐれで関係ないことも書くかもしれません。

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑥

(⑤より続く) ※都合により本日は⑤⑥同時掲載です

 

タメヨさんの夫の貞三郎(ていざぶろう)さんは、婿養子の立場上、関根家では常に遠慮して振る舞いました。ビールが大好物でしたが、結婚後は決して飲みませんでした。そんな貞三郎さんのために、タメヨさんが内緒でビール瓶を部屋に持ち込むこともありました。

 

関根家の止別(やむべつ)への移住は戦争のためでしたが、村の方針で計画通り進められました。終戦の翌年の1946年(昭和21年)夏、関根家は35年かけて開拓に成功した蒼瑁(そうまい)の地を明け渡し、一家揃って止別へ移住しました。

 

この1946年の末。貞三郎さんはさかんに咳こむようになり、やがて微熱も出ました。タメヨさんは心配しましたが、貞三郎さんはやはり遠慮から「風邪をこじらせただけ」と言うばかりでした。

翌1947年(昭和22年)。一向に咳の収まらない貞三郎さんに、タメヨさんは病院での診察を強く勧めました。診断の結果は「肺結核の疑い」。タメヨさんは大病院での診察や入院を勧めましたが、貞三郎さんは家計を心配し、それを断りました。家族への感染を防ぐため、病院の近くの空き家に1人で住み、そこから通院することにしました。

タメヨさんは貞三郎さんに、治療に専念して安静にするよう言いました。

「仕事なんて心配しないで。安静が一番大事だから、しっかり休んで」

しかし貞三郎さんは男手が減ることを心配し、タメヨさんや家族たちの制止も、医師の反対も振り切り、農作業を手伝いました。そして仕事が終わると1人、空き家へ帰って行く日々でした。タメヨさんはその姿を、涙を流して見送るしかありませんでした。

 

秋のある日。いつも遠慮がちな貞三郎さんが、珍しく「イカの刺身が食べたい」と言い出しました。タメヨさんは季節外れのイカを求め、バスと汽車を1時間以上乗り継ぎ、足を棒にして歩き回り、買い求めました。貞三郎さんは笑顔でイカの刺身を食べました。

 

それきり、貞三郎さんの食欲はどんどん落ちて、病状は悪化の一途を辿りました。当時、結核は不治の病も同然。タメヨさんはせめて最期は自宅で迎えさせたいと、父の忠助さんに頼んで、自宅に隔離部屋を作ってもらい、貞三郎さんを住まわせました。

「コイの生き血が薬になる」「青ガエルが結核に効く」素人療法を耳にするたび、タメヨさんはすでに冬だというのに、冬眠中のコイやカエルを捜して奔走しました。

 

1948年(昭和23年)3月13日。貞三郎さんは亡くなられました。洗面器は吐血であふれ返っていました。3月13日── 奇しくも、命日は24回目の結婚記念日でした。

この年の春、四男で末っ子の郁雄さんが小学校に入学予定でした。貞三郎さんは「9人全員が小学校に入れば、親として一応の責任がとれる」と言っていましたが、全員の小学校入りの、ほんの半月前の最期でした。

 

貞三郎さんの体を蝕んだのは、「止別を開拓しなければ婿養子としての面子に関る」との想いによる、過酷な労働でした。土壌に恵まれた蒼瑁に比べて、止別はずっと痩せ細った土地だったのです。そして止別への移転は、戦争のため。タメヨさんの戦争への憎しみは、一層激しくなりました。

皮肉なことに、この1948年、結核の特効薬であるストレプトマイシンが日本に輸入されました。もっともストレプトマイシンは当時、1本分の値段が関根家の収入半月分に値するほど高価な上、治療には何本も必要でしたから、どのみち、この薬による貞三郎さんの治療は困難でした。金持ちが生き延び、貧乏人が死ぬ。そんな世を、タメヨさんは嘆きました。

 

しかし、貞三郎さんの死を悲しんでも、戦争を憎んでも、貧乏を怨んでも、それで暮しが楽になるわけではありません。タメヨさんは悲しみ、怒り、怨みのすべてを力に変え、ひたすら開拓に打ち込み続けました。 

 

あるときタメヨさんは、幼いときから自分の道しるべとなった北極星を指して、こう言いました。

「この北海道にわたったときから、私の運命は決まっていた。人間は、もって生まれた運命に抗うことはできない。その運命に身を任せるしかない」

「私の頭上にはいつも、あの星が輝いていた。嬉しいときは一緒に喜び、悲しいときは慰めてくれた。あの星は私に、生きる勇気とロマンを与えてくれた」

 

(⑦へ続く)

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑤

(④より続く) ※都合により本日は⑤同時掲載です

 

1941年(昭和16年)。時代は太平洋戦争へ突入しました。タメヨさんたち関根家は、軍用機の飛行場の拡張のために、立ち退きを命じられました。

「嫌だ! ずっと苦労して、やっとここまで切り拓いてきたんだ! この土地は絶対に手放さない!」

タメヨさんはそう言って泣きましたが、当時の軍の命令は絶対です。父の忠助さんも議員という立場ですから、命令に抗うことはできませんでした。

 

この頃、子供たちも学校では授業どころではなく、グラウンドで育てた農作物を軍に送る日々でした。金属類は兵器の材料といって、アルミニウム製の弁当箱まで没収されました。

「こんな戦争、負けるとわかっている。飛行場なんて、無駄に決まっている」

 

1944年(昭和19年)、止別(やむべつ)(現・北海道斜里郡小清水町字止別)が関根家の新たな地となりました。最初の1年だけは、もとの蒼瑁そうまい村に住んだまま、止別に通いながらの作業が認められていました。タメヨさんはまず、止別に仮の家を建て、両親の忠助さんとソメさん、まだ小学校前の三男の忠三さん、3人だけを先にそこへ住まわせました。

それは忠三さんが、悪戯し放題の悪童のためでもありました。近所の子供との相撲ごっこで投げ飛ばされるや、「あいつをぶっ殺す」と、家からナタを持ち出そうとしたほどです。タメヨさんは、忠三さんと他の兄弟たちの同居は良くないと考え、一時的に別居させたのです。

 

忠助さんは酒好きでしたので、よく密造のどぶろくを呑み、孫の忠三さんに酌をさせました。ある日、忠助さんとソメさんが畑仕事から帰ると、忠三さんが倒れていました。忠助さんの酌をする内に酒の香りに惹かれ、どぶろくを盗み飲みしての急性アルコール中毒でした。

忠三さんが一命を取り留めた後、タメヨさんは両親を激しく叱りました。

「2人がついていながら、忠三を死なせるところだったなんて!」

とは言え、忠三さんを両親に預けたのは、当のタメヨさん自身です。タメヨさんは生涯、自分が息子の命を危うくさせたと、負い目に感じていました。

 

この頃すでに、小清水では空襲で2人の死者が出ていました。忠三さんの命の危機も、間接的には転居の理由である、軍の飛行場拡張のためといえます。戦争の余波は確実に、タメヨさんたちのもとへ及んでいました。

 

この飛行場拡張は、タメヨさんの三女のサダ子さんの命まで脅かしました。拡張工事の工場で腸チフスが発生し、サダ子さんが感染したのです。サダ子さんはまだ小学6年生、体力にも乏しく、命の危機に瀕しました。

戦時中の病院は患者たちで一杯で、入院など無理です。タメヨさんは医学書を必死に読み、家族への感染を防ぐために、自宅に隔離部屋を作って療養の場所とし、食事を重湯と半熟卵だけにし、熱心に看病しました。約3か月後、サダ子さんはガリガリに痩せ細りながらも、病魔から解放されました。

 

1945年(昭和20年)、終戦…… 長男の正行さんは「アメリカ兵を皆殺しにする」と家を飛び出そうとし、慌てた家族たちに制止されました。

家族たち皆が動転する中、ただ1人、敗戦を確信していたタメヨさんは、冷静に言いました。

若い人たちが大勢、犠牲になった…… 終わってくれて良かった」

 

この1945年、日本の戦後改革に伴い、女性の参政権が認められました。かつて政治家を夢見たタメヨさんにとって待望の時代ですが、当時のタメヨさんはすでに、仕事や子育てに追われる身。政治家はもはや、過去の夢でした。後年、タメヨさんは自嘲気味に話しています。

「開拓民に政治家など無理だった」

 

(⑥へ続く)

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ④

(③より続く)

 

1925年(大正15年)11月、タメヨさんは22歳のとき、隣村の入植者である垂石(たるいし)家の同い年の男性、貞三郎(ていざぶろう)さんとお見合いしました。

貞三郎さんの家は、貧乏の上に大家族で、貞三郎さんは8人兄弟の4番目です。「貞三郎を分家させる余裕は無い。ちょうど隣村に年頃の娘がいるから、婿養子に」と話が進んだのです。

タメヨさんは、美男子の貞三郎さんに一目惚れしました。おてんば娘のタメヨさんに比べ、貞三郎さんがおとなしい性格であったことも、タメヨさんが彼を気に入った理由の一つでした。

一方で貞三郎さんは婿養子といわれ、この結婚話には気が進みませんでした。家では「断ってほしい」と言ったほどです。しかし、この地方の風習で、見合いの禅に箸をつけることは「承諾」の意味でしたが、貞三郎さんはそれを知らずに箸を付けてしまっていたので、後に引けなくなりました。

翌1926年(大正16年)3月13日、タメヨさんと貞三郎さんは結婚しました。貞三郎さんが婿養子のため、タメヨさんは関根姓から改姓していません。この家の事情が、後に悲劇の一因となります。

 

一方で開墾の方は、大正中期の農業技術の発達、そして婿養子とはいえ貞三郎さんが一家の大黒柱として働くことで、この1926年頃には急速に進んでいました。タメヨさんたち関根家の土地はいつしか、入植当時の倍にまで広がっていました。タメヨさんと貞三郎さんは四男五女、9人の子宝にも恵まれました。長男も産まれ、父の忠助さんは跡取りができたことに大喜びでした。

 

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1938年(昭和13年)の関根家。
前列のご婦人お2人、子供を抱いた方がタメヨさん。もう1人が母ソメさん。
後列の男性、中央は父の忠助さん、子供を抱いた男性が夫の貞三郎さん。

 

父の忠助さんは、開墾の成功で生活にゆとりができたこと、周囲の勧めなどで、村議会議員に立候補しました。タメヨさんは自身も政治家を夢見ただけに、選挙運動の先頭に立って活躍しました。その甲斐あって、忠助さんは見事にトップ当選を果たしました。この当選は「娘の手柄」と、周囲は陰口を叩いていました。


おめでたい話が続きましたが、第二次世界大戦、太平洋戦争はもう目の前です。

戦争の余波は北海道奥地にまで及び、タメヨさんたち関根家も、否応なしに巻き込まれてゆきます。

 

(⑤へ続く)

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ③

(②より続く)

 

大正デモクラシーの高まる時代。タメヨさんは勉強好きが高じて、平塚らいてう市川房枝といった女性活動家たちの著書をむさぼり読みました。家に来客が来ても、本を手放さず、ろくに話を聞かない始末でした。

婦人問題に関する雑誌が、次々に発禁処分に遭う時代です。父の忠助さんは、タメヨさんのこうした興味を不安がりました。違う本を読むように言いましたが、タメヨさんは耳を貸しませんでした。

1923年(大正12年)、アメリカの平和運動家であるジェーン・アダムズさんが来日して、東京で講演することになり、タメヨさんはそれを聴きに上京すると言い出しました。忠助さんはさすがに窘めました。

特高に目を付けられるぞ! 女は家を守っていればいいんだ!」

「女が政治に興味を持って、何が悪いの!? 男も女も一緒でしょう? 現に毎日、男も女も一緒に畑で働いているんだもの」

「男が強かったから、日本は戦争に勝てたんだ!」

「女がいるから男が働けるんでしょう? 男たちが戦っているとき、銃後を守ったのは誰? 貧乏の中で子供を育てたのは誰!?」

タメヨさんも忠助さんも、ああ言えばこう言い返し、親子ゲンカはお互い一歩も引かず……と思いきや、タメヨさんからとどめの一撃です。

「いつだって犠牲になるのは、私たち女ばっかり。こんな土地に来たのも男のせい」

タメヨさんに痛いところを突かれ、忠助さんは言い返すことができませんでした。父の過去の行ないにタメヨさんが触れたのは、これが最初で最後です。

結局、当時は北海道の奥地から上京など常識外だった上に、農繁期で多忙という事情もあり、タメヨさんは上京を断念しました。

 

タメヨさんは文学や政治に強い関心を抱くあまり、一時は本気で独身を通して政治家になろうと夢に見ました。しかし、日本で女性が参政権を得るのは、20年以上後のことです。当時のタメヨさんにとって、政治家は文字通り「夢」でした。

 
1908年(明治41年)頃、タメヨさんは左目に白内障を患いました。当時はすでに、白内障は手術で治療可能でしたが、眼科医は遠地にあるのみで、通院は経済的に困難でした。初期の治療が遅れたことで、タメヨさんの左目は生涯、失明に近い状態でした。

 

不幸は続きました。1925年(大正14年)。郷里の福島の狸森(むじなもり)より、祖母シカさんの訃報が届きました。両親のいない孤独な生活でも、実母同然に自分を育ててくれた祖母シカさん。シカさんがいたからこそ、タメヨさんは愛情に包まれて育ったのです。狸森を発って阿武隈川を渡ったときには、シカさんは対岸で、涙を流しながら手を振っていました。あれが今生の別れだったと知り、タメヨさんは声を上げて泣きました。

「生きている内に、もう一度逢いたかった」

 

(④へ続く)

 

小休止

関根タメヨさんの人物伝が長引きそうな上、いつものごとく本業が超多忙ですので、力尽きる前に一息入れます。

 

最初はざっくりと

「1回じゃ書ききれないな。前編・後編かな」

「いや上・中・下かな」

と思いきや、書いてゆく内にどんどん長引き、たぶん全11回予定です。

長っ!

僕が読者だったら、この手の連載企画は5回を超えたら長いと思い、よほど興味を惹かれたものでないと読みません。

これでもだいぶ端折ったのですが、もっと、どうでもいい場面を端折って、肝心な場面を膨らませた方が、読み物としては良かったか…… の福島から北海道行きは「蒸気機関車、船、馬を乗り継いで5日間」と一言で済ませても良かったでしょうか。の皇太子様歓迎は、村代表になるだけで凄いでしょうから、傘云々のエピソードなんてどうでも良かったかもしれません。

すでに大半はテキスト化しており、この先も、どうでもいいエピソードが結構あります。今さら書き直すのも何ですので、このまま通して、第3弾(あるのか?)以降に方向性を検討してみたいです。

 

あと、①②を読み返すと、なんか、

地味──……

ですね。すみません、しばらく地味続きです。お読みの方々がどのくらいいらっしゃるか存じませんが、盛り上がるまでもう少しおつきあいください。

 

読者数、試しにアクセス解析してみると、

少なっ!

田中未知さんとの遭遇」はびっくりするほどアクセス数が伸びましたが、それ以降、びっくりするほど急降下です。

まぁ、解析しておきながら言うのも何ですが、読者の数が少なかろうが、好きなものをこうして形にするのは楽しいです。

ウィキペディアと同じです。一銭の得にもならないこんなこと、自分が好きじゃなきゃ、とても続けられません。

ライター・ちぷたそさんのこの記事でのお気持ち、よくわかります。

nlab.itmedia.co.jp

僕はウィキペディアでは、なんちゃっておじさんなど、サブカル記事もありがたいことに評価いただいていますが、サブカル関連で若い世代の人物として尊敬する2本柱が、ちぷたそ(井口エリ)さん、藤原麻里菜さんです。後者はもうウィキペディアに記事がありますね。

藤原麻里菜 - Wikipedia

近くに本を出版されるそうで、全身全霊で加筆してみたい、みたいのですが、存命人物の記事は怖い……

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ②

(より続く)

 

北海道の奥地、蒼瑁(そうまい)村での開拓生活が始まりました。両親が林を切り開いて畑を開拓し、農作物を育てる一方、タメヨさんは家の掃除、家畜の世話、薪運び、水汲みに汗を流しました。

せっかくの作物をシカやキタキツネに食い荒らされたり、ヒグマやエゾオオカミに怯える日も多くありました。冬季は気温が零下20度以下まで下がり、呼吸だけで喉が痛くなりました。

生活は苦しく、普段の食事では麦飯すら満足に食べられませんでした。主食はもっぱら、ソバ殻かイモ団子。それすら、1日3回食べることができませんでした。

タメヨさんにとって、一番の大仕事は水汲みでした。井戸を掘ろうにも、土地がそれに適さなかったのです。冬なら雪を溶かせば水ができますが、夏季には約2キロメートル歩き、川まで水を汲みに行きました。時には帰りが夕暮れになることもありました。道に迷いそうなとき、常に北天の中央に輝いている1つの星を見上げ、方角を確かめながら歩きました。

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(画像はウィキメディア・コモンズより)

「お父っつぁ。あの星は、何ていうの?」

「あれはな、北極星というんだ」

父の忠助さんは北極星のことを知っていたように、博打好きながらも、祖父が寺小屋に勤めていた影響で、学問好きでもありました。「これからは女も勉強すべき」と、タメヨさんに盛んに勉強を勧めました。

その影響で、タメヨさんもまた勉強好きとなりました。蒼瑁村に移住して以来、隣村の止別(やむべつ)教育所(在学中に止別尋常小学校に昇格、現・小清水町立中斗美(なかとみ)小学校)に途中入学し、熱心に通学しました。木綿の着物、教科書を風呂敷包み、夏は草履、冬はワラ靴で通学し、昼食の弁当も持参できないにも関らず、欠席は一度もありませんでした。自宅でも、囲炉裏の灯りで熱心に勉強しました。1917年(大正6年)の卒業式では成績優秀を表彰され、学級代表として卒業証書を受け取りました。

忠助さんはタメヨさんを進学させたいと考えましたが、蒼瑁村に高等科は無く、その夢は叶いませんでした。高等科併設は惜しくも、タメヨさん卒業のわずか2年後でした。

 

1922年(大正11年)7月、当時の皇太子様(後の昭和天皇)が、開拓状況の視察で北海道を一巡されました。当時18歳のタメヨさんは蒼瑁村代表として、皇太子様歓迎の一団に加わりました。村代表という名誉に、忠助さんは飼っていたヒツジを売りとばして反物を買い、母のソメさんが2日がかりで着物を縫い上げ、タメヨさんはその着物で着飾って、皇太子様歓迎に臨みました。

歓迎当日の7月17日は、あいにくの大雨でした。皇太子様は、ずぶぬれになった歓迎団を見て「傘を与えよ」と言われたそうです。タメヨさんは帰宅後、言いました。

「みんなが傘をさしていたので、皇太子様の姿は全然見えなかった。見えるのは人の頭と傘ばっかり。頭と傘を見に行ったようなもんだ」

それにもましてタメヨさんは、両親が精魂込めて用意してくれたせっかくの着物を、大雨で汚してしまったことを悔いました。

 

( へ続く)

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ①

前回の富田ユキさんは思いがけず、「特筆性があるのでは」と言われました。ウィキペディアで書くことを躊躇する理由は、Google検索での検索数の少なさもさることながら、参考文献に挙げた2冊の内、『わたしのラベンダー物語』が、ユキさんの長男・富田忠雄氏ご自身のご著書であること。もう1冊の『ほっかいどう百年物語』も、文末に挙げられている参考資料が、忠雄氏の『わたしの~』と、忠雄氏からの聞き取り。第三者視点でのユキさん像が欠けているのが苦しい、と考えている次第です。

今回の人物もまったく同様です。現在発見されている資料2冊、片方は著者が息子さん。もう片方はその息子さんの著書と、息子さんからの聞き取りをもとにしたもの。ただこちらは、書の中で市史や町史のことが引用されています。富田ユキさんについてご助言を頂きました通り、そうした市史や町史、あるいは郷土史などをあたれば、ウィキペディアの記事に仕立て上げられそう、と考えています。それまでの下書きとして、お楽しみいただければ、と思います。

 



2005年(平成17年)7月、北海道知床(しれとこ)は、豊かな自然と人間との共存が評価され、日本で3番目の世界自然遺産に登録されました。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6c/140829_Ichiko_of_Shiretoko_Goko_Lakes_Hokkaido_Japan01s5.jpg

(画像はウィキメディア・コモンズより)

この知床に隣接する斜里(しゃり)小清水町小清水原生花園には、毎年50万人以上の観光客が訪れます。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9c/Koshimizu_Natural_Flower_Garden.jpg

(画像はウィキメディア・コモンズより)

この北の大地を明治時代から開拓し、晩年には自然を守り抜くことに生涯を捧げた女性がいます。

 

関根(せきね) タメヨさん。

 

1904年(明治37年)11月8日、福島県大東村(現・須賀川市)狸森(むじなもり)生まれ。

誕生時のご家族は、父親の忠助さん、母ソメさん、タメヨさんの3人。1911年(明治44年)夏、父の忠助さんが、突如として失踪しました。博打好きの忠助さんは、700円~800円、平成期でいえば数百万円に値する多額の借金を作ってしまい、妻子を置いて借金取りから逃げたのです。タメヨさんは泣きながら、母ソメさんと共に母方のご実家に身を寄せました。

その年の10月。母ソメさんまでもが、タメヨさんに「必ず迎えに来るから」と言い残して、福島を去りました。忠助さんは北海道へ逃れており、密かにソメさんに手紙を送っていたのです。間もなく祖父が病気で他界。幸いにも祖母のシカさんが、孤独な境遇となったタメヨさんを想い、実子同然に愛情深く接してくれました。

 

1912年(明治45年)4月、忠助さんから手紙が届きました。

「北海道を開拓し、やっと親子3人で生活できるようになった。タメヨを引き取りたい」

タメヨさんは、わずか7歳にして、1人での北海道行きを決意しました。「自分を捨てた父を憎みつつも、肉親を捨てることはできなかった」とも、「祖母や郷里の友達との別れが辛いところを、祖母に説得された」ともいわれています。

日本国外すら容易に旅行可能な平成期以降とは、事情が違います。祖母に連れられ狸森から徒歩40分で阿武隈川へ。祖母と別れ、そこから渡し舟で対岸に渡り、須賀川駅へ。蒸気機関車を乗り継ぎ、青函連絡船に乗り換え、北海道の函館へ。さらに汽車を乗り継ぎ、野付牛(のつけうし)(現・北見市)で、父の忠助さんに出迎えられました。そこから忠助さんの家までは、徒歩で行くには遠すぎますが、汽車すらありません。忠助さんの駆る裸馬に必死に同乗。住処があるという斜里郡蒼瑁(そうまい)村(現・小清水町)に着いたのは、福島を発って5日後のことでした。忠助さんは、借金取りに追われることを恐れ、人里離れたそんな場所へ逃れていたのです。

タメヨさんは、自分を捨てた肉親を憎むでもなく、肉親との再会を喜ぶでもなく、北の果てのさらに奥地である蒼瑁村の当時の開拓地の光景に、唖然としました。

「親子3人で生活できる」はずの家、それは家とは名ばかりの、木皮と笹で作った掘っ立て小屋でした。畑は、ほんのわずか。家畜として一応ニワトリを飼ってはいるものの、小屋は無く、放し飼い。近隣に家はまったく無く、ただ林が広がっているだけでした。

 

明治初め、「夢の大地」と称する北海道へ、開拓にわたる人々は大勢いました。しかし凶作は続き、寒冷地作物の研究も進まず、夢破れた者、死者も大勢いました。そして開拓者の多くは家の次男か三男で、帰る地もありませんでした。

忠助さんもまた三男で、北海道に渡ったが最後、この地が唯一、生きてゆける場所でした。そしてタメヨさんも北海道に渡ったことで、開拓者と運命を共にすることになりました。

 

(②へ続く)