執筆記

ウィキペディア利用者:逃亡者です。基本的にウィキペディア執筆に関しての日記です。そのうち気まぐれで関係ないことも書くかもしれません。

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ②

(より続く)

 

北海道の奥地、蒼瑁(そうまい)村での開拓生活が始まりました。両親が林を切り開いて畑を開拓し、農作物を育てる一方、タメヨさんは家の掃除、家畜の世話、薪運び、水汲みに汗を流しました。

せっかくの作物をシカやキタキツネに食い荒らされたり、ヒグマやエゾオオカミに怯える日も多くありました。冬季は気温が零下20度以下まで下がり、呼吸だけで喉が痛くなりました。

生活は苦しく、普段の食事では麦飯すら満足に食べられませんでした。主食はもっぱら、ソバ殻かイモ団子。それすら、1日3回食べることができませんでした。

タメヨさんにとって、一番の大仕事は水汲みでした。井戸を掘ろうにも、土地がそれに適さなかったのです。冬なら雪を溶かせば水ができますが、夏季には約2キロメートル歩き、川まで水を汲みに行きました。時には帰りが夕暮れになることもありました。道に迷いそうなとき、常に北天の中央に輝いている1つの星を見上げ、方角を確かめながら歩きました。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a0/Big_Dipper_%26_North_Star_above_Joisey_%283527512498%29.jpg/791px-Big_Dipper_%26_North_Star_above_Joisey_%283527512498%29.jpg
(画像はウィキメディア・コモンズより)

「お父っつぁ。あの星は、何ていうの?」

「あれはな、北極星というんだ」

父の忠助さんは北極星のことを知っていたように、博打好きながらも、祖父が寺小屋に勤めていた影響で、学問好きでもありました。「これからは女も勉強すべき」と、タメヨさんに盛んに勉強を勧めました。

その影響で、タメヨさんもまた勉強好きとなりました。蒼瑁村に移住して以来、隣村の止別(やむべつ)教育所(在学中に止別尋常小学校に昇格、現・小清水町立中斗美(なかとみ)小学校)に途中入学し、熱心に通学しました。木綿の着物、教科書を風呂敷包み、夏は草履、冬はワラ靴で通学し、昼食の弁当も持参できないにも関らず、欠席は一度もありませんでした。自宅でも、囲炉裏の灯りで熱心に勉強しました。1917年(大正6年)の卒業式では成績優秀を表彰され、学級代表として卒業証書を受け取りました。

忠助さんはタメヨさんを進学させたいと考えましたが、蒼瑁村に高等科は無く、その夢は叶いませんでした。高等科併設は惜しくも、タメヨさん卒業のわずか2年後でした。

 

1922年(大正11年)7月、当時の皇太子様(後の昭和天皇)が、開拓状況の視察で北海道を一巡されました。当時18歳のタメヨさんは蒼瑁村代表として、皇太子様歓迎の一団に加わりました。村代表という名誉に、忠助さんは飼っていたヒツジを売りとばして反物を買い、母のソメさんが2日がかりで着物を縫い上げ、タメヨさんはその着物で着飾って、皇太子様歓迎に臨みました。

歓迎当日の7月17日は、あいにくの大雨でした。皇太子様は、ずぶぬれになった歓迎団を見て「傘を与えよ」と言われたそうです。タメヨさんは帰宅後、言いました。

「みんなが傘をさしていたので、皇太子様の姿は全然見えなかった。見えるのは人の頭と傘ばっかり。頭と傘を見に行ったようなもんだ」

それにもましてタメヨさんは、両親が精魂込めて用意してくれたせっかくの着物を、大雨で汚してしまったことを悔いました。

 

( へ続く)

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ①

前回の富田ユキさんは思いがけず、「特筆性があるのでは」と言われました。ウィキペディアで書くことを躊躇する理由は、Google検索での検索数の少なさもさることながら、参考文献に挙げた2冊の内、『わたしのラベンダー物語』が、ユキさんの長男・富田忠雄氏ご自身のご著書であること。もう1冊の『ほっかいどう百年物語』も、文末に挙げられている参考資料が、忠雄氏の『わたしの~』と、忠雄氏からの聞き取り。第三者視点でのユキさん像が欠けているのが苦しい、と考えている次第です。

今回の人物もまったく同様です。現在発見されている資料2冊、片方は著者が息子さん。もう片方はその息子さんの著書と、息子さんからの聞き取りをもとにしたもの。ただこちらは、書の中で市史や町史のことが引用されています。富田ユキさんについてご助言を頂きました通り、そうした市史や町史、あるいは郷土史などをあたれば、ウィキペディアの記事に仕立て上げられそう、と考えています。それまでの下書きとして、お楽しみいただければ、と思います。

 



2005年(平成17年)7月、北海道知床(しれとこ)は、豊かな自然と人間との共存が評価され、日本で3番目の世界自然遺産に登録されました。

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(画像はウィキメディア・コモンズより)

この知床に隣接する斜里(しゃり)小清水町小清水原生花園には、毎年50万人以上の観光客が訪れます。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9c/Koshimizu_Natural_Flower_Garden.jpg

(画像はウィキメディア・コモンズより)

この北の大地を明治時代から開拓し、晩年には自然を守り抜くことに生涯を捧げた女性がいます。

 

関根(せきね) タメヨさん。

 

1904年(明治37年)11月8日、福島県大東村(現・須賀川市)狸森(むじなもり)生まれ。

誕生時のご家族は、父親の忠助さん、母ソメさん、タメヨさんの3人。1911年(明治44年)夏、父の忠助さんが、突如として失踪しました。博打好きの忠助さんは、700円~800円、平成期でいえば数百万円に値する多額の借金を作ってしまい、妻子を置いて借金取りから逃げたのです。タメヨさんは泣きながら、母ソメさんと共に母方のご実家に身を寄せました。

その年の10月。母ソメさんまでもが、タメヨさんに「必ず迎えに来るから」と言い残して、福島を去りました。忠助さんは北海道へ逃れており、密かにソメさんに手紙を送っていたのです。間もなく祖父が病気で他界。幸いにも祖母のシカさんが、孤独な境遇となったタメヨさんを想い、実子同然に愛情深く接してくれました。

 

1912年(明治45年)4月、忠助さんから手紙が届きました。

「北海道を開拓し、やっと親子3人で生活できるようになった。タメヨを引き取りたい」

タメヨさんは、わずか7歳にして、1人での北海道行きを決意しました。「自分を捨てた父を憎みつつも、肉親を捨てることはできなかった」とも、「祖母や郷里の友達との別れが辛いところを、祖母に説得された」ともいわれています。

日本国外すら容易に旅行可能な平成期以降とは、事情が違います。祖母に連れられ狸森から徒歩40分で阿武隈川へ。祖母と別れ、そこから渡し舟で対岸に渡り、須賀川駅へ。蒸気機関車を乗り継ぎ、青函連絡船に乗り換え、北海道の函館へ。さらに汽車を乗り継ぎ、野付牛(のつけうし)(現・北見市)で、父の忠助さんに出迎えられました。そこから忠助さんの家までは、徒歩で行くには遠すぎますが、汽車すらありません。忠助さんの駆る裸馬に必死に同乗。住処があるという斜里郡蒼瑁(そうまい)村(現・小清水町)に着いたのは、福島を発って5日後のことでした。忠助さんは、借金取りに追われることを恐れ、人里離れたそんな場所へ逃れていたのです。

タメヨさんは、自分を捨てた肉親を憎むでもなく、肉親との再会を喜ぶでもなく、北の果てのさらに奥地である蒼瑁村の当時の開拓地の光景に、唖然としました。

「親子3人で生活できる」はずの家、それは家とは名ばかりの、木皮と笹で作った掘っ立て小屋でした。畑は、ほんのわずか。家畜として一応ニワトリを飼ってはいるものの、小屋は無く、放し飼い。近隣に家はまったく無く、ただ林が広がっているだけでした。

 

明治初め、「夢の大地」と称する北海道へ、開拓にわたる人々は大勢いました。しかし凶作は続き、寒冷地作物の研究も進まず、夢破れた者、死者も大勢いました。そして開拓者の多くは家の次男か三男で、帰る地もありませんでした。

忠助さんもまた三男で、北海道に渡ったが最後、この地が唯一、生きてゆける場所でした。そしてタメヨさんも北海道に渡ったことで、開拓者と運命を共にすることになりました。

 

(②へ続く)

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (1) 北海道ラベンダーの陰の貢献者・富田ユキ

ウィキペディアには「 独立記事作成の目安」というガイドラインがあります。簡単にいえば、書く対象が「百科事典に載せるに値するかどうか」です。人物でいえば、野口英世福澤諭吉ら、紙幣になったほどの偉人は、文句なしに百科事典掲載対象でしょう。逆に、僕の自宅近所でいつもお世話になるクリーニング店の店員さんは、悪く言えば、ただのおばちゃんです。とても事典には載せられません(←極端すぎる例)。

そうした事情で、ウィキペディアでの執筆対象としては非常にグレー…… というより、むしろ無理、でも僕の大好きな人物たちを、これから不定期に、勝手に紹介していきたいと思います。果たしてこんなブログを、どの程度の方々がお読みか存じませんが……

僕がウィキペディアタウンなどのイベントで、人物記事を書く動機について「やっぱり人間が一番おもしろい」と口癖のように言ってしまうので、このタイトルをつけてみました。

 


 

北海道、富良野きっての観光名所、ラベンダー畑。どなたでも、少なくとも聞いたことくらいはあるでしょう。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b6/Sign_of_Farm_Tomita.jpg

(画像はウィキメディア・コモンズより)

しかし、ある無名の女性こそが、富良野ラベンダーの隠れた貢献者であり、この女性がいなければ、現在の富良野のラベンダーは決してありえないとの事実を、果たしてどのくらいの方々がご存じでしょうか。

 

富田(とみた) ユキさん。

 

1909年(明治42年)、現在の富良野市生まれ。旧姓は井上さん。

ユキさんは子供の頃より、お父様から「女は縁の下で家を支える存在であれ」と、厳しく躾けられました。その甲斐あってユキさんは、家事の知識をしっかりと身につけて育ちました。中でも裁縫、特に和裁を得意としていました。

1930年(昭和5年)、25歳のとき、入植農家の富田徳雄さんと結婚。1932年(昭和7年)に、長男の忠雄さんが誕生。徳雄さんが頑固者でしたので、ユキさんは、せめて自分だけは息子を自由にさせたいとの想いで、忠雄さんを愛情深く育てました。そんな母心のもと、忠雄さんは感受性と独創性を兼ね備えて育ちました。

1953年(昭和28年)。21歳となった忠雄さんは農業視察で、上富良野町のラベンダー畑に心を奪われ、新たな農業としてラベンダー栽培を思い立ちました。ところが昔気質の徳雄さんは「農家は食べ物を作る仕事だ! 女の化粧品の材料作りなど許さん!」と猛反対。ユキさんは父子の衝突に心を痛めながらも、忠雄さんが、昔ながらの農業とは違う新たな夢を見つけたと気づき、それを静かに見守ろうと決心しました。

1958年(昭和33年)、忠雄さんは26歳で結婚。所帯持ちとなったことで徳雄さんから一人前と認められ、やっとラベンダー栽培の許しを得ました。ユキさんは徳雄さんに遠慮しつつ、黙々と忠雄さんの仕事を手伝いました。そうした協力もあり、1970年(昭和45年)には、忠雄さんの畑のラベンダーは、ヨーロッパ産を上回るほどの上質となりました。富良野のラベンダー生産は、まさに頂点に達したと言えます。

しかし、この時期を境に危機が訪れます。急激な技術進歩で、安価な合成香料が登場。貿易自由化で、海外から安価な香料の輸入開始。富良野のラベンダーは、香料会社による買い上げ価格が下がる一方で、富良野は一気に窮地に追い込まれました。

1973年(昭和48年)、ついに香料会社が買い上げ中止。富良野ではラベンダー農家が次々に廃業し、忠雄さんは最後のラベンダー農家となりました。その忠雄さんも1975年(昭和50年)5月にとうとう、ラベンダー畑の処分を決心しました。

忠雄さんがトラクターで畑に乗り入れ、ラベンダーが切り刻まれ…… 数メートルのところで忠雄さんはトラクターを停め、大泣きし始めました。忠雄さんにとって、ラベンダーは愛娘も同然。それが切り刻まれる音は、あたかも娘の悲鳴のように聞こえたのです。

「このラベンダーを潰すなんて、俺にはできない。苦しいけど、もう1年だけ続けたい」

それまで忠雄さんをじっと見守るだけだったユキさんは、明治女ならではの気丈さで、こう言いました。

「戻るも地獄、進むも地獄なら、やりたいようにやりなさい。私は、あんたの信じる道を行く」

ユキさんにとって、息子の夢は、自分自身の夢でもあったのです。

この1975年。忠雄さんは最後の1年のつもりで、精一杯のラベンダーを育てました。その忠雄さんの想いに応えるように、ラベンダーはひときわ美しい花を咲かせました。

ユキさんは忠雄さんを助けたい一心で、稲作に力を注ぎ、米を売った金で家計を支えました。その助力の甲斐あり、翌1976年(昭和51年)も、忠雄さんは迷いつつ、生活できなくなるまでは努力してみようと、ラベンダー栽培に取り組みました。

この1976年に突如、忠雄さんの畑へ、カメラマンが次々に押し寄せ、花々を撮影し始めました。前年のラベンダー、あの美しく咲いた花々が、忠雄さん自身も知らない間に、旧国鉄の1976年のカレンダーに採用され、話題を呼んでいたのです。しかし依然、香料作物としてのラベンダー栽培が限界であることに、変わりはありませんでした。カメラマンたちは皆、栽培の継続を望みましたが、忠雄さんは本当に限界に達していたのです。この年、忠雄さんは今度こそ、最後のラベンダー作りのつもりでいました。

そんなある日のこと。旅行客らしき1人の年配女性が、ラベンダー畑を訪れました。その女性は、忠雄さんが畑を辞めようとしていると知るや、ユキさんにラベンダーの上手な活用方法を話しました。ラベンダーの本場であるフランスのプロヴァンスのこと、ラベンダーは乾燥させると香りが長持ちすること、プロヴァンスではサシエ(香り袋)が女性に喜ばれていること。この女性の素性や、なぜこんな知識を持っていたのかは、今なお不明です。

ユキさんはその日から、何かに取りつかれたかのように、早咲きのラベンダーを乾燥させ、サシエの製作に取り掛かりました。嫁入り前の躾が功を奏し、裁縫ならお手の物です。タンスにあった端切れを使い、千個以上のサシエが完成しました。

ユキさんは、畑を訪れるカメラマンたちへの土産として、惜しげもなくサシエを持たせました。これが思わぬことに、畑の名産品として噂を呼び始めました。

「おばあちゃん、記念品として買いたいです」「無料でもらうわけにはいきません」
「じゃあ、400円でいいかい?」

ユキさん手製のサシエは、売り物として作ったつもりでないにも関らず、爆発的な人気となりました。富田家はたちまち、即席の土産屋と化しました。サシエを皆が喜ぶ品物にしようと、デザインの工夫を凝らしました。カメラマンたちもその作業に加わり、カメラマンや観光客たちとの交流の輪が広がりました。

秋に入った頃、ユキさんはサシエの売上をすべて、忠雄さんに差し出しました。その額、約30万円。

「このお金を、何かの足しにしておくれ」
「それは母さんの儲けじゃないか。受け取れないよ。母さんが好きなことに使いなよ」

ユキさんは何も言わず、忠雄さんを見つめるだけです。

「……わかった。俺、ラベンダーを続けるよ。きっとこれからも苦労するけれど、また手伝ってほしい。母さん、よろしくお願いします!」

忠雄さんはユキさんの想いを受け止め、その後もラベンダー栽培を続けると決意しました。

そんな忠雄さんに、ユキさんは笑顔で応えました。

 

その後もラベンダー畑は、観光名所へと成長を続け、ドラマ『北の国から』の撮影などでも知られるようになりました。

ファーム富田 - Wikipedia

畑がどんどん有名になる一方で、ユキさんは決して表舞台に出ず、忠雄さんを陰で支えることに徹しました。

1999年(平成11年)6月9日、ユキさんは満90歳で亡くなられました。その間際まで、畑に観光客が訪れると、ユキさんは「あなたたち、どこから来たの?」「そんな遠いところから、ありがとうね」と、優しい声で出迎えていたといいます。

 

北海道中富良野町で富田忠雄さんが営む農園「ファーム富田」では現在でも、「ラベンダーサシエ」が売られています。

値段は400円。ユキさんが決めた値段、そのままで。

shop-hanabito.net

 

参考文献)
富田忠雄『わたしのラベンダー物語』、新潮社〈新潮文庫〉、2002年6月1日(原著1993年)。ISBN 978-4-10-129731-6。
ほっかいどう百年物語 北海道の歴史を刻んだ人々──。』第5集、STVラジオ編、中西出版、2004年12月27日。ISBN 978-4-89115-134-8。

 

田中未知さんとの遭遇

最初、さるSF映画のタイトルの洒落で「未知との遭遇」のタイトルで書き始めましたが、呼び捨てはあんまりと思い、変更しました。
修正前をご覧になった皆様、どうかお忘れください(^^;

 

【田中未知さんとお話をした】 - RaccoWikipedia’s blog


こちらのブログの方が詳細に書かれており、僕も今まで少し書いておりましたが、改めて、ざっくりとまとめます。

10月8日(祝)、ウィキペディアのイベント「Wikipediaブンガク」が開催されました。詩人・歌人・劇作家である寺山修司氏の没後35年を記念した特別展「寺山修司展 ひとりぼっちのあなたに」を見ながら、皆で寺山氏に関するウィキペディアの記事を編集しよう、との企画です。

企画者は、こちらでも触れた司書さんのTGさん(T氏改め)。講師を勤められるはこちらのR氏。

この展示にて、僕は 田中未知さんという人物を、初めて知りました。
ご著書のプロフィールには作曲家とありますが、寺山氏の秘書でもあり、現在でも寺山氏の作品の発表のために活動なさっているとのこと。
寺山氏がお亡くなりになり30年以上、今なお寺山氏のことを伝え続ける田中さん。その田中さんを突き動かす想いとは、どんなものだろう?
そして、田中未知さんの記事を新規に執筆するに至りました。

 イベント後、R氏が寺山氏についてTwitterで呟いたところ、田中未知さんご本人がそれをリツイート。田中さんもTwitterをなさっていたと判明し、R氏がTwitterで田中さんとやりとり。そこに僕も加わり、相互フォローとなったのは既述の通りです。

 

そして、ここからが事態の発展です。

 

田中さんはTwitterなどオンラインでの会話はあまり好まれないご様子で、R氏と、直に逢ってお話ししたい、とのことになりました。

そして…… 執筆者本人として、僕も同席することになりました

誰が?
僕が同席?
まさか、僕が?
ただの底辺会社員に過ぎない僕が?
田中さんと逢う?

感想が一言も書けません。
なぜなら、本当に頭が真っ白になり、何も考えられなかったからです。


11月3日(土)、神奈川近代文学館にて、寺山氏製作による映画の上映会の後、田中さん他お2人によるトークショー、田中さんのサイン会があり、その後にインタビューの機会を設けていただくこととなりました。

 

Wikipediaブンガク」では、僕の書いた記事の他、寺山修司氏自身の記事も編集されています。複数の方々により寺山氏の作品『毛皮のマリー』も新規に立項されています。
本来ですと、その編集に携わった皆さんが、お話に加わるべきでしょう。
しかし、冒頭のR氏のブログにあるように、田中さんご自身のご負担を最優先すべき。そして、実際どんな形のインタビューになるか、開催してみるまでわからない……など諸々の理由により、出席者は最小限となりました。主催者TGさん、講師R氏、立会人として文芸評論家・編集者のN氏(僕は初対面、実はこちらで既に触れている方)。そして田中さんの記事執筆の張本人として、僕。計4人です。
そのような事情で…… 「自分も参加したかった!」とお思いの皆様、全力で、申し訳ありませんでした。


さて、ここからは準備に大忙しです。
何度も書いたように、ただでさえ本業は超多忙。その合間を縫って何度も図書館に通い、コピーをとりました。

田中さんが寺山氏との日々を著した『寺山修司と生きて』を自腹で買い、通勤電車の中で何度も何度も繰り返し読みました。

自分の書いたウィキペディアの田中さんの記事や、それに使った出典を全部印刷。そうした資料のまとめは、いつもは百均の安物のリングファイルを使うけれど、あまりにみっともないので、ヨドバシで少しマシなものを購入。
鞄は、通勤鞄は布製、しかも破れかけたものなので(つくづく身嗜みには無頓着)、これはあんまりと思い、少しでも見栄えの良いものをAmazonで購入。自宅到着は予定前日でした。

 

約束の日が近づくにつき、自問自答の繰り返しです。

いいのか?
もっとすごい執筆者皆さんがたくさんいるのに、僕如きで本当にいいのか?

そんな思いとは裏腹に、否応なく時間は過ぎてゆきます。

 

ついに当日、11月3日(土)。

「乗換案内」で入念に電車の時間をチェックし、敢えてその2本前の電車で出発しました。文学館へ行くのは3度目ですが、親の代から方向音痴だからです。

神奈川近代文学館のある「海の見える公園」には、待合せ時間の30分以上前に到着しました。
周囲には観光客と思しき人々、海を見ながら談笑する人々、食事を楽しむ人々。
僕は心の中で叫びました。

「どなたでもいいですから、代わってください! このカンペを棒読みするだけでいいです! お金払ってもいいですから!」

そんな心の声が届くわけもなく、文学館を目指します。

館の10メートル手前で、足が止まりました。
誇張ではありません。本当に歩けなくなりました。

いいのか? いっそ、逃げ出そうか?

何年も前に見た某アニメの台詞が頭をよぎりました。
ものすごく控えめでおとなしい少女が、勇気を出すときの言葉です。

 

「私に足りなかったものは…… この一歩を踏み出す勇気!」

(ちなみに声優さんは、僕が敬愛する人物の1人、笠原弘子さんです)

 

いつものように胸に下げている、亡き父の形見の指輪のペンダントに手を触れました。
母が「それをいつも身に付けていれば、きっと父さんが、いつもあなたを守ってくれるよ」と言って、くれたものです。
父は僕と正反対、酒と煙草と女が大好き。仕事柄、人との会話などお手の物でした。
「父さん、力を貸して……」と心の中で言いかけましたが、やめました。

 

「父さんの力はいりません。見守ってくれるだけでいいです。僕の力だけで歩きます」

 

振るえる足に力を入れ、文学館に到着しました。

しばし後にTGさんが到着。見知った顔に、ようやく心が和みました。
R氏も到着。N氏に紹介され、名刺交換です。
R氏はこうしたイベントでご活躍のお方、N氏もさすがプロ、皆さんの冗談めかしたお話で、心が和んでゆきます。

 

映画上映会が始まりました。

第1弾、田中さん製作よる映画『質問』。
田中さんのご著書『質問』は、全365の質問文だけで構成された書です。
ナレーションで、この書のいくつかの質問が読み上げられ、寺山氏自身が答えていくという、実験的な短編映画が、映画『質問』です。

ナレーション「○○○○したことは、ありますか?」
寺山氏「うん、それはね、□□□□なんだよね」

時には深い答だったり。時には笑いを誘う答だったり。
僕も観客皆さんと共に笑いました。

第2弾、寺山さん製作による『草迷宮』。
難解なので、日本での公開に至らなかったそうです。
……ごめんなさい。凡人の僕には、難しかったです。

 

トークショーが始まりました。
田中さんご本人が登場!
これからインタビューする相手を初めて拝見し、緊張は最高潮でしたが、トーク内容がとても興味深く、時には心から大笑いする内容に、だいぶ緊張は解けてきました。

トークの終盤、司会者の方が
「お客様皆様の中で、何か質問はありませんか?」
即座に若いお客さんの1人が、大声を張り上げました。
「何々は云々なんですか?」(←内容忘れ)
こんな大衆の場ですごい勇気……
あなたのようなお方こそ、僕と代ってほしい。本気でそう思いました。

 

トークを終え、ロビーにて、田中さんのサイン会。
僕たちはすぐそばで待機です。
うわ、すごいお客さんの数!! こんなに大人気だったんだ……!


15時半過ぎ頃でしたでしょうか、サイン会が終わり、いよいよ僕たちのインタビューです。
案内の男性に連れられつつ、移動。

へぇ、こんな秘密通路みたいな場所があったんだ……

あっ、目の前に「関係者以外立入禁止」の札。こちらではないのですね。
えぇと、どちらへ行ったら?

「こちらへどうぞ」

僕は一般人なのですが、立入禁止の向こうへ行って良いのでしょうか……?


到着した場所は広いロビー。大きなテーブル。
ふかふかのソファ。座ってみたら、尻が床にぶつかりそう。
リラックスしてお話ができそうです。

「場所はこちらになります」

お話の場所がこのソファかと思いきや、指されたのは、そばのドアでした。
世の中にこんなでかいドアがあったのですね。
その名も神奈川近代文学館、特別会議室です。

「ここは皇室の皆様も使われた場所で……」

余計なプレッシャーをかけるな──!


ついに、田中さんが登場。解けたはずの緊張が超急ピッチで最高点に達します。

インタビューが始まります。
ドアが開き、入っていいのか? 入っていいのか?
迷いつつ…… 入室。

R氏による紹介のもと、田中さんを始め、ご同行のお2方と名刺交換。
もちろん、田中さんご本人とも名刺を交換します。

僕「田中さんの記事を執筆させていただきました。ウィキペディアでは『逃亡者』と名乗っておりますが、本名は『山田』と申します。駄文で申し訳ありません」

(※ 最近作ったウィキペディア用名刺には、『逃亡者』の名と共に本名を併記しています)

田中さん「あら、良かった。山田さんね。『逃亡者さん』なんて呼べないもの」

また言われた……(^^;
以後、田中さんからの僕の呼び名は「山田さん」でした。

皆でテーブルにつきます。
僕はテーブルの端っこにちょこんと同席で十分と思ったのですが。

田中さんの真正面が僕……(^^;

ここからのインタビューが肝心なところですが、内容はウェブマガジンの記事に載るかもしれませんので、「ネタバレ禁止」ということで、伏せます。申し訳ありません……
とにもかくにも、全体はR氏が進行してくださり、僕が言葉に詰まるところを、R氏が素早くフォローしてくださったおかげで、無事に事が進みました。

田中さんはまだまだ話し足らないご様子でしたが、17時半過ぎにインタビューは終了。
最近流行の「働き方改革」で、文学館も土曜日は残業禁止のため、とのオチでした。

 

喋りはヘタ。初対面の人との出逢いは大の苦手。あがり症。
そんな性格、この歳になれば治しようがありません。
ですので、このインタビューにあたり、個人的な目標を立てました。
「終わったとき、心から『楽しかった』と言えるように」。

インタビューが終わり、文学館を出て、思わず口に出ました。

 

「楽しかった──!!」


後は4人で反省会と称し、居酒屋になだれ込み。
酒の席でも、話は尽きることはありませんでした。


帰途の電車では、N氏と隣同士でした。
氏はさすがプロ。弁舌、博識。聞き役に徹してしまい申し訳ありません。
もっともっとお話をお伺いしたかったですが、横浜駅で皆とお別れとなりました。


あれから約1週間、まだ興奮は覚めません。
平日にはとてもブログにまとめきれませんでした。

 

田中さんは、僕たちを信じてくださった。
その信頼は、とてつもなく重い……
だけど、なぜだろう。
その重さが、苦痛に感じられない。

田中さんの信頼に応えたい。
応えよう。

書こう。
書き続けよう。

 

これからも、きっとたくさん迷う。
迷ったら、あの日のことを思い出そう。
書き続ける気持ちを奮い立たたせてくれた、あの日のことを。


僕に足りなかったものは、この一歩を踏み出す勇気。

 

雑感

NHK朝ドラ『ゲゲゲの女房』で、主人公・水木しげるの貧乏時代を「先の見えない泥沼のような状態」と表現する台詞がありました。
最近の僕の仕事ぶりは泥沼というより底なし沼に思えます。
先日、雑誌の編集者の方とお逢いし、本職が会社員であること、ウィキペディアを書いても一銭にもならず、むしろ金が出ていくばかり、などと話したところ、「本を書くべき」と言われました。
家族も僕のことを「いっそ今の仕事を辞めて本でも書けば、みんな一緒に暮らせるのにね」と話していたそうです。
少し心が動いております。
僕の記事のような駄文が売り物になるのかは大いなる疑問ですが。

 

また編集者の方に小樽出身と伝えたところ、小樽の魅力は文学であり、小樽をもっと文学面で盛り上げるべき、とも言われました(……だったかな? 酒の後だったのでうろ覚え)
小樽で文学といえば、やはりあの施設。
ウィキペディアで調べてみました。

市立小樽文学館 - Wikipedia

人物で赤リンクがたくさん!

宝の山を見つけてしまった……!!

「逃亡者」の名の由来

「なぜ『逃亡者』という名前?」と何度か聞かれますので、この場を借りまして。

 

以前、ウィキペディアではありませんが、ネットでぽちぽちと書き込み、名前を書くとき。
下の名前のローマ字入力を、キータイプし損ないました。

「t・o・b・o・h」

そのとき小樽の実家におりましたもので、隣の兄の部屋から、音楽が流れてきました。
レベッカのギタリスト、古賀森男氏によるロックバンド「フェビアン」の曲、『逃亡者』です。
歌詞の中に「孤独」「逃亡者」のキーワードがありました。
折しも、職場で人間関係が非常に厄介な時期で、体を壊して前の職場を辞める直前でした。

逃亡者…… 今の僕はあたかも、現実世界からネットへ逃げるかのよう。
僕は友達が少ない…… 孤独か、確かにそうかも。

逃亡者をローマ字で書けば「tobosha」。先のキータイプし損ないの「toboh」に似ていなくもありません。

そこで閃いた名前が、 「逃亡者」でした。

今年の春の新聞記事もこの名前で載っておりますが、新聞を見た田舎の母からは「もっといい名前はなかったの?」と言われ、ウィキペディアのイベントではもう3度ほど「呼びにくい」と言われてしまいましたので、ちょっとだけ後悔しております……

 

なおフェビアンの『逃亡者』の歌詞の引用は憚られますので、こちら知恵袋をご覧ください。というか、ここの回答者、実は僕です(^^;

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今日の紹介記事、新着記事、投稿記事

帰宅の電車がやけに激混みと思ったら、ハロウィンでしたか。去年の今頃は川崎勤務、電車所要時間はたかが10分程度でしたので、この時期のハロウィンラッシュは初めて体験します。どうも日本人は、むしろハロウィン嫌いが多いようで、僕も嫌い側の仲間入りしそうです。

途中下車し、閉館間際の図書館に滑り込み、本を借用。連日の多忙で疲労、図書館の階段の昇り降りもしんどい……給料日くらい栄養をつけるべく、美味しい物を食べて帰るか? いや、今日は宅急便が到着予定でした。寄り道せず帰宅。

そして帰宅してみれば、郵便受けに不在通知。ほんの数分前に配達されていたようでした。結局は寄り道しても結果は同じだったのです。不運な日は、とことん不運が続くものです。

 

さて、今日のメインページで良質な記事として紹介されていたカバの「京子」は、昨日触れたS女史、新着記事候補の「龍野のカタシボ竹林」は、これまた先日触れたS氏による初版投稿でした。最近ようやく、記事名で初版投稿者がピンとくるようになった気がします。

それらに比ぶべくもない短い記事ですが、本日はこちらの記事を新規投稿させていただきました。

たけだみりこ - Wikipedia

料理漫画『セイシュンの食卓』で知られる漫画家です。漫画のタイトルは知らなくても、「小柳ルミ子大澄賢也がダンスしながら料理していた深夜バラエティ番組」といえば、おわかりいただける方々もいらっしゃるでしょうか。

横浜転居前、札幌在住時代は、独身でいるのがもったいないほど広いマンションに住み、台所も立派でしたが、肝心の料理の腕はさっぱりでしたので、この『セイシュンの食卓』単行本を全巻買い、簡単な料理ばかり作っていました。ごはんと卵を炒めて鰹節と醤油で味付けだけの「おかたまチャーハン」なんて、本当によく作ったなぁ。

しかし、たけだみりこ氏のことを調べていたら、病気を経てからは健康路線にシフトしたとのことです。『セイシュンの食卓』はコンビニ食品をフル活用したメニューが多かったので、やはりコンビニ食品は危険なのでしょうか。日々の食事がほぼコンビニ飯の僕……やばいなぁ(^^;