執筆記

ウィキペディア利用者:逃亡者です。基本的にウィキペディア執筆に関しての日記です。そのうち気まぐれで関係ないことも書くかもしれません。

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑧

(⑦より続く) ※都合により本日も⑧同時掲載、11月19日(月)は休載予定です

 

タメヨさんの長男の正行さんは成績優秀で、学校では高校進学を勧められていました。しかし父の貞三郎(ていざぶろう)さん亡き今、自分が農家の跡取りです。父と死別したときから、自分が進学を諦めれば済むと決めていました。農家の男子は中学卒業後は立派な働き手となり、進学せず農業に従事するのが常識の時代でした。

 

次男の建二さんもまた、成績優秀でした。1950年(昭和25年)、建二さんの進学時期が迫りました。タメヨさんは今度こそ進学させたいと考えましたが、正行さんや姉たちが進学できなかった手前や、家計のことから、言い出せずにいました。

正行さんは自分が進学を諦めた一方で、今後の社会人は高校卒業くらいの知識が必要と考え、タメヨさんに弟の建二さんの進学を提案しました。他の子供たちも賛成し、タメヨさんは安堵しました。建二さんはめでたく、高校進学を果たしました。

 

しかし高校生活は、予想以上の苦労でした。止別の自宅から高校までは、徒歩と汽車で約1時間半もかかります。始業時間は8時20分。高校近くに下宿できれば良いのですが、下宿費など用意できません。

タメヨさんは毎朝5時前に起きて弁当を作り、夜が明けきらない内に建二さんを送り出しました。帰りは夜20時頃になることもあり、タメヨさんは建二さんの顔を見るまでは眠ることができない日々が続きました。

 

下宿費が用意できなかったように、当時の関根家は未だ貧しく、食事でも主食はほとんど麦飯でした。建二さんの高校に持参する弁当も、もちろん麦飯です。当時の高校生大半の弁当が白米でしたので、建二さんは昼食の時間が最も苦痛でした。

そこでタメヨさんは、息子が恥しくないようにと、祭事や正月用に買い込んでおいた白米を麦飯の上に薄く乗せ、白米に見せかけた「偽装白米弁当」を考案しました。後に五女の信世さん、三男の忠三さん、四男で末っ子の郁雄さんも進学し、郁雄さんの高校卒業まで、この「偽装白米弁当」が続きました。

 

1952年(昭和27年)2月。タメヨさんの父の忠助さんが、入院中の隣人を見舞った後、急に倒れ、2日後に死去しました。当時の病院では病室で煮炊きが許されており、七輪による一酸化炭素中毒が死因でした。

「孫が9人もいるなら、1人くらい結婚するまでは死ねない」

それが忠助さんの口癖でしたが、孫の結婚の夢が叶う、わずか3か月前のことでした。

 

(⑨へ続く)

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑦

(⑥より続く)

 

タメヨさんの夫の貞三郎(ていざぶろう)さんが、結核で死去した後のこと。次女のタツ子さん、長男の正行さんも、父からの感染により結核に罹患しました。正行さんは軽症で済みましたが、タツ子さんは重症でした。

タメヨさんは夫の最期を思い出し、土地を売ってでも娘を救おうと、医師に頼み込んで、高価なストレプトマイシンを何本も投与し続けました。約3年後にタツ子さんは治癒しますが、この治療費は莫大なものとなりました。タメヨさんたち関根家は、経済的に最大の危機に瀕しました。

 

農協に借金を申し込みましたが、収入の低さを理由に断られました。種モミを借りることすらできませんでした。タメヨさんは正行さんと共に、もとの蒼瑁(そうまい)村まで行って、かつての知人たちを頼り、どうにか農作業を凌いでいました。

止別(やむべつ)で誰かに頼ろうにも、移住から何年も経たない関根家は、いわば「よそ者」扱いでした。あるとき、当時はまだ貴重品だった砂糖が村の全戸に支給されることになり、皆が喜びました。しかし関根家は「移り住んで間もないから」との理由で、支給はありませんでした。タメヨさんは人の本性を見た思いで、一時は悲嘆したものの、すぐに気持ちを切り替えました。

「今の時代は、みんなが今日という日を生き抜くのに必死なんだ。人を憎むなんて、おかしい」

 

タメヨさんの考える通り、終戦直後の止別は、どこの集落も貧しく、毎晩のように寄合が開かれました。長男の正行さんは、亡き貞三郎さんの跡継ぎとはいえ、まだ18歳、未成年です。荷が重いと感じたタメヨさんは、自ら寄合に出向き、村の男たちと渡り合っていました。

 

子供といえば、タメヨさんは9人の子供たちを育てるにあたって「常に9人平等に」と考えていました。たとえば、父の忠助さんが慶事や法事の土産に羊羹(ようかん)を持ち帰れば、皆が甘味に飢えていた時代ですから、子供たちは大喜びします。しかし、羊羹はたった1本です。タメヨさんは羊羹を物差しで測り、わずかの狂いもなく9等分していました。何度も繰り返す内に、物差しを使わなくとも正確に9等分できるようになりました。それはまさに神技のような包丁さばきで、子供たちから拍手が巻き起こるほどでした。

 

度重なる不幸に、子供たちが先行きを不安がることもありましたが、タメヨさんは子供たちの前では、努めて明るく振る舞っていました。農作業の帰り道では、子供たちと共に、当時の流行歌『リンゴの唄』『東京の花売娘』などをよく口ずさんでいました。

「私まで暗く落ち込んでいては、子供たちに悪い影響が出る。明るく振る舞わなければならない」

 

終戦直後のあるとき。タメヨさんの次男の建二さんが、冬のオホーツク海へ訪れるアザラシを友達と狩りに行くと言い出しました。タメヨさんは「何日もかけてここまでやって来るアザラシを殺す必要があるの?」と激しく叱りつけ、建二さんを戒めました。

また、川へ産卵に遡るサケを密漁者が獲ろうとしたときには、タメヨさんは「川で卵を産んで死ぬ運命のサケを面白半分で殺していいの!?」と、厳しく説教しました。

タメヨさんは生来、生物に愛情を注ぐ性格でした。歳を経るに従い、次第に自然への慈しみが深まっていったのです。この自然に対する心情は、後の自然保護運動へと結実していきます。

 

(⑧へ続く) 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑥

(⑤より続く) ※都合により本日は⑤⑥同時掲載です

 

タメヨさんの夫の貞三郎(ていざぶろう)さんは、婿養子の立場上、関根家では常に遠慮して振る舞いました。ビールが大好物でしたが、結婚後は決して飲みませんでした。そんな貞三郎さんのために、タメヨさんが内緒でビール瓶を部屋に持ち込むこともありました。

 

関根家の止別(やむべつ)への移住は戦争のためでしたが、村の方針で計画通り進められました。終戦の翌年の1946年(昭和21年)夏、関根家は35年かけて開拓に成功した蒼瑁(そうまい)の地を明け渡し、一家揃って止別へ移住しました。

 

この1946年の末。貞三郎さんはさかんに咳こむようになり、やがて微熱も出ました。タメヨさんは心配しましたが、貞三郎さんはやはり遠慮から「風邪をこじらせただけ」と言うばかりでした。

翌1947年(昭和22年)。一向に咳の収まらない貞三郎さんに、タメヨさんは病院での診察を強く勧めました。診断の結果は「肺結核の疑い」。タメヨさんは大病院での診察や入院を勧めましたが、貞三郎さんは家計を心配し、それを断りました。家族への感染を防ぐため、病院の近くの空き家に1人で住み、そこから通院することにしました。

タメヨさんは貞三郎さんに、治療に専念して安静にするよう言いました。

「仕事なんて心配しないで。安静が一番大事だから、しっかり休んで」

しかし貞三郎さんは男手が減ることを心配し、タメヨさんや家族たちの制止も、医師の反対も振り切り、農作業を手伝いました。そして仕事が終わると1人、空き家へ帰って行く日々でした。タメヨさんはその姿を、涙を流して見送るしかありませんでした。

 

秋のある日。いつも遠慮がちな貞三郎さんが、珍しく「イカの刺身が食べたい」と言い出しました。タメヨさんは季節外れのイカを求め、バスと汽車を1時間以上乗り継ぎ、足を棒にして歩き回り、買い求めました。貞三郎さんは笑顔でイカの刺身を食べました。

 

それきり、貞三郎さんの食欲はどんどん落ちて、病状は悪化の一途を辿りました。当時、結核は不治の病も同然。タメヨさんはせめて最期は自宅で迎えさせたいと、父の忠助さんに頼んで、自宅に隔離部屋を作ってもらい、貞三郎さんを住まわせました。

「コイの生き血が薬になる」「青ガエルが結核に効く」素人療法を耳にするたび、タメヨさんはすでに冬だというのに、冬眠中のコイやカエルを捜して奔走しました。

 

1948年(昭和23年)3月13日。貞三郎さんは亡くなられました。洗面器は吐血であふれ返っていました。3月13日── 奇しくも、命日は24回目の結婚記念日でした。

この年の春、四男で末っ子の郁雄さんが小学校に入学予定でした。貞三郎さんは「9人全員が小学校に入れば、親として一応の責任がとれる」と言っていましたが、全員の小学校入りの、ほんの半月前の最期でした。

 

貞三郎さんの体を蝕んだのは、「止別を開拓しなければ婿養子としての面子に関る」との想いによる、過酷な労働でした。土壌に恵まれた蒼瑁に比べて、止別はずっと痩せ細った土地だったのです。そして止別への移転は、戦争のため。タメヨさんの戦争への憎しみは、一層激しくなりました。

皮肉なことに、この1948年、結核の特効薬であるストレプトマイシンが日本に輸入されました。もっともストレプトマイシンは当時、1本分の値段が関根家の収入半月分に値するほど高価な上、治療には何本も必要でしたから、どのみち、この薬による貞三郎さんの治療は困難でした。金持ちが生き延び、貧乏人が死ぬ。そんな世を、タメヨさんは嘆きました。

 

しかし、貞三郎さんの死を悲しんでも、戦争を憎んでも、貧乏を怨んでも、それで暮しが楽になるわけではありません。タメヨさんは悲しみ、怒り、怨みのすべてを力に変え、ひたすら開拓に打ち込み続けました。 

 

あるときタメヨさんは、幼いときから自分の道しるべとなった北極星を指して、こう言いました。

「この北海道にわたったときから、私の運命は決まっていた。人間は、もって生まれた運命に抗うことはできない。その運命に身を任せるしかない」

「私の頭上にはいつも、あの星が輝いていた。嬉しいときは一緒に喜び、悲しいときは慰めてくれた。あの星は私に、生きる勇気とロマンを与えてくれた」

 

(⑦へ続く)

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ⑤

(④より続く) ※都合により本日は⑤同時掲載です

 

1941年(昭和16年)。時代は太平洋戦争へ突入しました。タメヨさんたち関根家は、軍用機の飛行場の拡張のために、立ち退きを命じられました。

「嫌だ! ずっと苦労して、やっとここまで切り拓いてきたんだ! この土地は絶対に手放さない!」

タメヨさんはそう言って泣きましたが、当時の軍の命令は絶対です。父の忠助さんも議員という立場ですから、命令に抗うことはできませんでした。

 

この頃、子供たちも学校では授業どころではなく、グラウンドで育てた農作物を軍に送る日々でした。金属類は兵器の材料といって、アルミニウム製の弁当箱まで没収されました。

「こんな戦争、負けるとわかっている。飛行場なんて、無駄に決まっている」

 

1944年(昭和19年)、止別(やむべつ)(現・北海道斜里郡小清水町字止別)が関根家の新たな地となりました。最初の1年だけは、もとの蒼瑁そうまい村に住んだまま、止別に通いながらの作業が認められていました。タメヨさんはまず、止別に仮の家を建て、両親の忠助さんとソメさん、まだ小学校前の三男の忠三さん、3人だけを先にそこへ住まわせました。

それは忠三さんが、悪戯し放題の悪童のためでもありました。近所の子供との相撲ごっこで投げ飛ばされるや、「あいつをぶっ殺す」と、家からナタを持ち出そうとしたほどです。タメヨさんは、忠三さんと他の兄弟たちの同居は良くないと考え、一時的に別居させたのです。

 

忠助さんは酒好きでしたので、よく密造のどぶろくを呑み、孫の忠三さんに酌をさせました。ある日、忠助さんとソメさんが畑仕事から帰ると、忠三さんが倒れていました。忠助さんの酌をする内に酒の香りに惹かれ、どぶろくを盗み飲みしての急性アルコール中毒でした。

忠三さんが一命を取り留めた後、タメヨさんは両親を激しく叱りました。

「2人がついていながら、忠三を死なせるところだったなんて!」

とは言え、忠三さんを両親に預けたのは、当のタメヨさん自身です。タメヨさんは生涯、自分が息子の命を危うくさせたと、負い目に感じていました。

 

この頃すでに、小清水では空襲で2人の死者が出ていました。忠三さんの命の危機も、間接的には転居の理由である、軍の飛行場拡張のためといえます。戦争の余波は確実に、タメヨさんたちのもとへ及んでいました。

 

この飛行場拡張は、タメヨさんの三女のサダ子さんの命まで脅かしました。拡張工事の工場で腸チフスが発生し、サダ子さんが感染したのです。サダ子さんはまだ小学6年生、体力にも乏しく、命の危機に瀕しました。

戦時中の病院は患者たちで一杯で、入院など無理です。タメヨさんは医学書を必死に読み、家族への感染を防ぐために、自宅に隔離部屋を作って療養の場所とし、食事を重湯と半熟卵だけにし、熱心に看病しました。約3か月後、サダ子さんはガリガリに痩せ細りながらも、病魔から解放されました。

 

1945年(昭和20年)、終戦…… 長男の正行さんは「アメリカ兵を皆殺しにする」と家を飛び出そうとし、慌てた家族たちに制止されました。

家族たち皆が動転する中、ただ1人、敗戦を確信していたタメヨさんは、冷静に言いました。

若い人たちが大勢、犠牲になった…… 終わってくれて良かった」

 

この1945年、日本の戦後改革に伴い、女性の参政権が認められました。かつて政治家を夢見たタメヨさんにとって待望の時代ですが、当時のタメヨさんはすでに、仕事や子育てに追われる身。政治家はもはや、過去の夢でした。後年、タメヨさんは自嘲気味に話しています。

「開拓民に政治家など無理だった」

 

(⑥へ続く)

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ④

(③より続く)

 

1925年(大正15年)11月、タメヨさんは22歳のとき、隣村の入植者である垂石(たるいし)家の同い年の男性、貞三郎(ていざぶろう)さんとお見合いしました。

貞三郎さんの家は、貧乏の上に大家族で、貞三郎さんは8人兄弟の4番目です。「貞三郎を分家させる余裕は無い。ちょうど隣村に年頃の娘がいるから、婿養子に」と話が進んだのです。

タメヨさんは、美男子の貞三郎さんに一目惚れしました。おてんば娘のタメヨさんに比べ、貞三郎さんがおとなしい性格であったことも、タメヨさんが彼を気に入った理由の一つでした。

一方で貞三郎さんは婿養子といわれ、この結婚話には気が進みませんでした。家では「断ってほしい」と言ったほどです。しかし、この地方の風習で、見合いの禅に箸をつけることは「承諾」の意味でしたが、貞三郎さんはそれを知らずに箸を付けてしまっていたので、後に引けなくなりました。

翌1926年(大正16年)3月13日、タメヨさんと貞三郎さんは結婚しました。貞三郎さんが婿養子のため、タメヨさんは関根姓から改姓していません。この家の事情が、後に悲劇の一因となります。

 

一方で開墾の方は、大正中期の農業技術の発達、そして婿養子とはいえ貞三郎さんが一家の大黒柱として働くことで、この1926年頃には急速に進んでいました。タメヨさんたち関根家の土地はいつしか、入植当時の倍にまで広がっていました。タメヨさんと貞三郎さんは四男五女、9人の子宝にも恵まれました。長男も産まれ、父の忠助さんは跡取りができたことに大喜びでした。

 

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1938年(昭和13年)の関根家。
前列のご婦人お2人、子供を抱いた方がタメヨさん。もう1人が母ソメさん。
後列の男性、中央は父の忠助さん、子供を抱いた男性が夫の貞三郎さん。

 

父の忠助さんは、開墾の成功で生活にゆとりができたこと、周囲の勧めなどで、村議会議員に立候補しました。タメヨさんは自身も政治家を夢見ただけに、選挙運動の先頭に立って活躍しました。その甲斐あって、忠助さんは見事にトップ当選を果たしました。この当選は「娘の手柄」と、周囲は陰口を叩いていました。


おめでたい話が続きましたが、第二次世界大戦、太平洋戦争はもう目の前です。

戦争の余波は北海道奥地にまで及び、タメヨさんたち関根家も、否応なしに巻き込まれてゆきます。

 

(⑤へ続く)

 

「人間って、おもしろい」 人物伝 (2) 北極星に支えられた開拓者・関根タメヨ ③

(②より続く)

 

大正デモクラシーの高まる時代。タメヨさんは勉強好きが高じて、平塚らいてう市川房枝といった女性活動家たちの著書をむさぼり読みました。家に来客が来ても、本を手放さず、ろくに話を聞かない始末でした。

婦人問題に関する雑誌が、次々に発禁処分に遭う時代です。父の忠助さんは、タメヨさんのこうした興味を不安がりました。違う本を読むように言いましたが、タメヨさんは耳を貸しませんでした。

1923年(大正12年)、アメリカの平和運動家であるジェーン・アダムズさんが来日して、東京で講演することになり、タメヨさんはそれを聴きに上京すると言い出しました。忠助さんはさすがに窘めました。

特高に目を付けられるぞ! 女は家を守っていればいいんだ!」

「女が政治に興味を持って、何が悪いの!? 男も女も一緒でしょう? 現に毎日、男も女も一緒に畑で働いているんだもの」

「男が強かったから、日本は戦争に勝てたんだ!」

「女がいるから男が働けるんでしょう? 男たちが戦っているとき、銃後を守ったのは誰? 貧乏の中で子供を育てたのは誰!?」

タメヨさんも忠助さんも、ああ言えばこう言い返し、親子ゲンカはお互い一歩も引かず……と思いきや、タメヨさんからとどめの一撃です。

「いつだって犠牲になるのは、私たち女ばっかり。こんな土地に来たのも男のせい」

タメヨさんに痛いところを突かれ、忠助さんは言い返すことができませんでした。父の過去の行ないにタメヨさんが触れたのは、これが最初で最後です。

結局、当時は北海道の奥地から上京など常識外だった上に、農繁期で多忙という事情もあり、タメヨさんは上京を断念しました。

 

タメヨさんは文学や政治に強い関心を抱くあまり、一時は本気で独身を通して政治家になろうと夢に見ました。しかし、日本で女性が参政権を得るのは、20年以上後のことです。当時のタメヨさんにとって、政治家は文字通り「夢」でした。

 
1908年(明治41年)頃、タメヨさんは左目に白内障を患いました。当時はすでに、白内障は手術で治療可能でしたが、眼科医は遠地にあるのみで、通院は経済的に困難でした。初期の治療が遅れたことで、タメヨさんの左目は生涯、失明に近い状態でした。

 

不幸は続きました。1925年(大正14年)。郷里の福島の狸森(むじなもり)より、祖母シカさんの訃報が届きました。両親のいない孤独な生活でも、実母同然に自分を育ててくれた祖母シカさん。シカさんがいたからこそ、タメヨさんは愛情に包まれて育ったのです。狸森を発って阿武隈川を渡ったときには、シカさんは対岸で、涙を流しながら手を振っていました。あれが今生の別れだったと知り、タメヨさんは声を上げて泣きました。

「生きている内に、もう一度逢いたかった」

 

(④へ続く)

 

小休止

関根タメヨさんの人物伝が長引きそうな上、いつものごとく本業が超多忙ですので、力尽きる前に一息入れます。

 

最初はざっくりと

「1回じゃ書ききれないな。前編・後編かな」

「いや上・中・下かな」

と思いきや、書いてゆく内にどんどん長引き、たぶん全11回予定です。

長っ!

僕が読者だったら、この手の連載企画は5回を超えたら長いと思い、よほど興味を惹かれたものでないと読みません。

これでもだいぶ端折ったのですが、もっと、どうでもいい場面を端折って、肝心な場面を膨らませた方が、読み物としては良かったか…… の福島から北海道行きは「蒸気機関車、船、馬を乗り継いで5日間」と一言で済ませても良かったでしょうか。の皇太子様歓迎は、村代表になるだけで凄いでしょうから、傘云々のエピソードなんてどうでも良かったかもしれません。

すでに大半はテキスト化しており、この先も、どうでもいいエピソードが結構あります。今さら書き直すのも何ですので、このまま通して、第3弾(あるのか?)以降に方向性を検討してみたいです。

 

あと、①②を読み返すと、なんか、

地味──……

ですね。すみません、しばらく地味続きです。お読みの方々がどのくらいいらっしゃるか存じませんが、盛り上がるまでもう少しおつきあいください。

 

読者数、試しにアクセス解析してみると、

少なっ!

田中未知さんとの遭遇」はびっくりするほどアクセス数が伸びましたが、それ以降、びっくりするほど急降下です。

まぁ、解析しておきながら言うのも何ですが、読者の数が少なかろうが、好きなものをこうして形にするのは楽しいです。

ウィキペディアと同じです。一銭の得にもならないこんなこと、自分が好きじゃなきゃ、とても続けられません。

ライター・ちぷたそさんのこの記事でのお気持ち、よくわかります。

nlab.itmedia.co.jp

僕はウィキペディアでは、なんちゃっておじさんなど、サブカル記事もありがたいことに評価いただいていますが、サブカル関連で若い世代の人物として尊敬する2本柱が、ちぷたそ(井口エリ)さん、藤原麻里菜さんです。後者はもうウィキペディアに記事がありますね。

藤原麻里菜 - Wikipedia

近くに本を出版されるそうで、全身全霊で加筆してみたい、みたいのですが、存命人物の記事は怖い……